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「どうせ」を拒否して投票に行く [日常日記]

今日は参議院選挙の投票日だ。自民党が過半数を制するなどと言われて盛り上がりがない。どうせ、選挙で世の中は変わらないとしらけている人が多い。だが僕は「どうせ」という言葉が嫌いだ。僕も重篤な病気を抱えている身なのだが、どうせ病気だから助からないなどと考えることは拒否することにしている。

人間は、どうせ死ぬのだ。これは初めから決まっている。しかし、人間は死ぬまでの間、せいいっぱい生きるのである。「どうせ」を拒否するところから、すべての人生は始まる。

僕は日本の社会が順風満帆だとは思っていない。年金はどんどん消えていくし、若い人たちは働く場がない。どう考えても、社会は落ち目で下降線をたどっている。マイナンバーや秘密保護法などで自由が削られ、自由闊達な社会は失われつつある。社会は間違った方向に進んでいる。

社会の方向を変えるには政治を変えるしかない。しかしながら、政治はなかなか変わらない。安直に政治を託せる力と理念をもった受け皿がないのだ。ここで「どうせ」とあきらめてはいけない。たとえ、いま変わらなくても、あきらめずに投票する人間がいることが大切なのだと思う。それが、やがて「どうせ」を振り切る力になる。

日本を戦争に引きずり込む戦争法案には反対だ。原発に依存する社会から脱出しなければいけない。世の中の格差の広がりはひどすぎる。会社ばかりが儲かり給料が増えないのは間違っている。税金は庶民の消費税でなく、金持ちや、大儲けしている会社から取るべきだ。

こうした基準で考えると、今回、僕の票の受け皿としては、日本共産党とするのが素直だ。比例区では、多少票が生きるかもしれないが、ここの地方区で共産党が当選するとは思えない。しかし、それは問題ではない。あきらめずに、自分の意見にしたがって素直に投票し続ける。これが「どうせ」を拒否する生き方なのだと思う。

片手生活3週目 [日常日記]

転倒による骨折から3週目、片手生活が続いている。「私は夫を介護している優しい奥さんなのよ」と、自慢げな連れ合いの目つきに、悔しい思いをさせられるが、ある程度事実なのだから仕方がない。

しかし、人間は思いのほか順応性があるものだとわかってきた。最初は介護されまくっていたのだが最近はずいぶんと自立して来た。靴下をはくなどと言うことも、最初、どうしても足先を靴下に入れることができなかった。要は工夫だ。手を靴下の中に入れて、親指と小指を大きく広げれば入口が大きくなる。ここへ足先を合わせて、手とすり替える。これで靴下が履けるようになった。

車のシートベルトは、座ってしまうと、右手では届かないのだが、座る前に引き出して、左手のギブスに引っかけておけばよい。手順を考えることが必要だ。難関だったのは、ズボンをはくことだが、両手でないと、どうしても片側しか引き上げられない。もう一方に手を伸ばすと反対側がずり落ちてしまう。これは壁をうまく使うことで切り抜けられる。引き上げたほうの腰を壁に押し当てて、ずり下がりを防いでおいて、もう一方を上げる。チャックを引き上げて、最後は片手でボタンを留めなければならないのだが、練習したらできるようになった。

もともと、僕は不器用な方ではない。連れ合いが広島に届けるのだといって千羽鶴を折っていたが、僕は片手の掌で鶴を折ることに挑戦して見事成功した。ただ、時間はかかる。このほうが、心のこもった折り鶴であることは間違いないだろう。

歩行が安定しないから、また転倒しないために杖がいるのだが、右手を酸素ボンベに取られたら杖が持てない。片手だけで酸素ボンベを背中に背負うのも大変だったが、やはり、壁とか車の車体を利用すればなんとかなった。コンピュータのalt+shift+f5なんかは、alt+shift+Aに置き換える設定をすればよい。工夫すればなんとかなるのだ。

片手だってなんでもできると言いたいところだが、そうもいかない。ナイフとフォークの食事はダメだから、箸を使うのはいいとして、蕎麦をすする時、左手に出汁椀を持たないのは、蕎麦っ喰いの僕としては、何とも惨めだ。シャワーで右腕を洗うのは原理的に無理だし、車の運転はどうしても危険だ。結局助けてもらう局面は少なくない。

工夫と練習で補えても、問題は時間がかかることで、これはどうしようもない。出かけるときは急ぐから、配偶者がしゃしゃり出て、服を着せたりするが、なされるままだ。ギブスがとれるまで忍の一で過ごすしかない。それにしても、もう少し用心しておれば、転倒しないで済んだのにと思うと後悔は大きい。

片手生活がいつまで続くのだろうか。それを思うと気が重い。通院日で、SCC腫瘍マーカーがまた少し上がって2.7になってしまったのも気になる。ものごとは、なかなか順調にはいかないものだ。

アメリカの年金 [日常日記]

僕は若いころアメリカで働いたことがある。わずか数年なのだが、2年目位から年金に加入させられた。ほとんど忘れていたのだが、「年金の受け取りを申請していないけどどうしますか」と言う手紙がきた。日本なら3年加入しただけの年金では何も支給されない。同封されている見積もりによると、結構な額で、日本の基礎年金部分にも匹敵しそうだ。実際には税金や経費をかなり引かれて半額位になるかも知れないのだが、それでも大いに助かる。米国公証人のサインとかが必要で、多少面倒だが、月末に渡米するので、その時にありがたく手続きさせてもらおうと思っている。

払い込みは確か5%が給料からの天引きになっていたと思う。若くて給料も安かったから、たいしたことはないはずだ。聞いてみると、雇用主があとの5%を継ぎ足して、それが40年の利子で膨れ上がった様子だ。今でも日本のようにゼロ金利ではないし、40年前は高利子だった。アメリカでも高齢化は進んでおり、特に我々団塊世代は、Baby Boomerと言われて人口が多い。電話連絡のときに、年金の切り下げとかがあるのか聞いてみたら怪訝な様子だった。

老齢人口が多くなっても、若いころ払い込んでおり、その頃は高齢者が少なかったから、年金資金が余って積み残されている。だから、支払いには特に問題がないのだそうだ。では日本で言われる高齢化による年金資金不足は一体何なのだろう。確かに若年人口が減って現在の年金払い込みは少なくなっている。しかし、我々が払い込んだ資金があるはずだ。

日本では、その昔、年金受給者が少なかった頃に、余った資金を湯水のごとく全部使い果たしてしまったという。今では名前を変えたりしているが、△△厚生年金会館といった豪華なホールなどが全国各地にできた。年金休暇村というのもあったし、XX年金財団とか、わけのわからない団体もたくさん出来て、天下りの受け皿になった。

年金資金の不足は、決して高齢化のせいではない。役人たちが、せっせと無駄使いをして、あるいは、天下りの高給として山分けしてしまったからに他ならない。高齢化により年金が危ういなどと宣伝して、年金が切り下げられているが、これはウソだ。使い込みにより年金が危うくなったというのが正しい。

こういった宣伝のために、若い人の中には年寄りのせいで生活が苦しいなどと考える人も出てくる始末だ。こういうウソは許しがたい。

他にもアメリカと比較してわかるウソがある。例えば雇用保険だ。日本では10年働いても3ヶ月しか失業保険がもらえない。これが普通だと思わされているが、アメリカでは、2年働けば失業保険を1年受給できるといった手厚いものだ。

しかも、アメリカでは保険料全額を雇用主が支払う。日本では、当たり前のごとく、半額を労働者の給料から天引きするというセコイことをしている。アメリカでは解雇の自由があり、すぐに首にされるが、それなりの保障がされているのだ。満足に失業保険がもらえない日本で解雇を規制緩和したりすれば、地獄でしかない。

りんご、そして歌 [日常日記]

高校時代の友人がリンゴを一箱送ってくれた。箱の中には青森産の美しくも赤いリンゴがきっちりと並んでいる。そう言えば近年あまりリンゴを食べた覚えがない。果物の種類がいろいろと増えて、りんごを食す機会が減ってしまったのだろう。噛むと甘酸っぱい香りが飛び散り、なぜか懐かしいと感じる味がした。

僕らが子供のころ、リンゴ、みかんと柿は一番身近な果物だった。みかんは、こたつに入って家族で食べるもの、柿は友達と木によじ登ってかじるものだ。リンゴはどうだろう。僕の場合、母親のそばに座って、りんごがむけるのを心待ちにしていた記憶につながる。母の手元から長くのびるリンゴの皮を見て、切ってもらい、やがて僕の口に入るであろうその味を思い浮かべていた。

リンゴというのは、小さい子供が自分でむけるものではない。だから母につながる郷愁があるのだ。連れ合いの友達に音楽指導をしている人があって、少年院で指導した時に、ある子にリンゴを食べさせてやったことがあるそうだ。不幸な生い立ちで不良と呼ばれるようになっていたその子は、リンゴをむいてもらったことに感激して泣き出してしまった。りんごは、母の愛情を感じることができる果物であり、幸せな家庭の象徴であるかも知れない。

赤いりんごをながめていて思い出すのは藤村の詩だ。国語の教科書に出てきたから多分覚えている人も多いだろう。
まだあげそめし前髪の、林檎の元に見えしとき、
前にさしたる花櫛の花ある君と思いけり、
やさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に人恋そめし初めなり
実はこの先もあるのだが、ここまでしか覚えていない。この先は余計ななような気がする。「薄紅の秋の実に」と目先を転じるところの新鮮さがいつも気持ちを引き付ける。たしかにリンゴの甘酢っぱさは初恋の味にふさわしい。そういえばリンゴの唄が多い。他の果物はそんなにも歌われていない。
「私は真っ赤なリンゴです。お国は遠い北の国.........」
「赤いリンゴに唇よせて、だまってみている 青い空.......]
「りんごの花ほころび 、川面に霞たち 君なき里にも.....」
「リンゴの花びらが、風にちったとさ.......」
「リンゴ畑のお月さん今晩は、噂をきいたら...」
「おぼえているかい 故郷の村を........都へ積み出す 真赤なリンゴ.....」
「ひとつのリンゴを君が二つに切る 僕の方が少し大きく切ってある.....」
「若葉かおる五月の庭 リンゴの花咲き、流れてくる乙女たちの......」
このところ腰が痛くて動きの取れない連れ合いに付き合って家で一日を過ごすことが多いのだが、たわいない話に終始する。戯れに挙げて見たらきりがないくらいに次々と出てくる。おもわず口ずさんでしまう歌の数々だ。もちろん大声で歌うわけではない。僕はいつのまにか歌うことに気恥ずかしさを感じてしまうようになっている。

節分-----病気は外! [日常日記]

「福はうち、鬼は外」。なんという正直な叫びだろう。世の中には鬼もいるし福もある。もはやこの現実からは逃れられないが、できることなら選別して家の中は福であってほしいというのが利己的な庶民の願いだ。

今年の豆まきには力が入ってしまった。連れ合いの抗がん剤治療が始まり、僕は難聴や緑内障といった不具合が始まり、人生の終末が見えてきた。ここは運、不運の一つの分かれ目だろう。叫びに付け足しをした。「病気は外!!」心底からの願いだ。

節分というのは一年を24節気に分けた「節」の分かれ目と言うことだが、立春の前の日を指す。一年は、春夏秋冬の4つの季節があり、立冬から冬になり、冬の最中が冬至、最後が節分で翌日の立春から春が始まるということになっている。これは暦法上あるいは天体運行上のことで、実際の季節とはかなりずれる。

節目に未来を願うのは自然な発想だ。節分の行事はいろんな連想から庶民が作り上げていった。豆まきが一番普及しているし、年の数だけ豆を食べるとか。4つ辻まで行って豆を置いて振り向かずに帰ってくるとか、イワシの頭と巻き寿司を食べるとか地域によってバリエーションも多い。

近年、一番盛んなのが「恵方巻」といって、北北西を向いて巻きずしを食べるというのものである。古くから関西で行われていたというのだが、1975年まで関西にいた僕にそんな記憶はない。下町の教員をしていた配偶者は、「まるかぶり」の話をしていた子供の事を覚えているという。

どうも、大阪の花街で、ざれごととして巻きずしの丸かぶりというのをやっていたらしい。それが下町で広がった。しかし、1970年代には大阪でも一般的なものではなかった。「恵方巻」という言葉についての記録はどこにもないそうだ。

関東で「恵方巻」を知ったのはごく最近の事だ。調べて見ると1989年にセブンイレブンが巻きずしを全国販売するキャンペーンを張って、このとき「恵方巻」と名付けたらしい。「関西で古くからおこなわれている」というのは、このとき持ち出した理由づけに過ぎない。

バレンタインにチョコレートなどと同じく、商業宣伝が生み出した新たな都市伝説なのである。高層マンションの窓から豆まきというわけには行かないから、豆まきよりも恵方巻が盛んになるのかもしれないが、しかし、やっぱり節分は、豆まきであってほしい。

鬼は外! 福は内! 病気は外! ガンなんか消えちまえ! 間質性肺炎なんか消えちまえ!

下町風情 御徒町 [日常日記]

連れ合いは、抗がん剤の第一回目を終えて退院した。重篤な副作用は見られず、あとは通院で4クールの投薬をやればいいとのことだった。しかし、副作用が始まったのは退院してからだった。嘔吐して食事が食べられなくなった。相変わらず腰痛もある。麻薬で痛みを感じなくしているので強い痛みではないのだが、それがむしろ問題だ。ついつい動いて腰に負担をかけてしまう。圧迫骨折が2か所もある身であることを自覚してほしい。

嘔吐は2日ほどで治まってきた。今日は病院に行って2回目の投薬をする日だ。ところが実は、僕はこの日に予定を入れてしまっていて付き添えない。僕の予定に娘もつき合わせることにしてしまっていたので困ったことになった。うまい具合に息子の日本出張があって午前中は連れ合いにつきあってくれることになった。予定通り東京に出かけることになる。

予定と言うのは、東京のスタジオにいって映像収録することだ。こう言うと、何か芸能人のような響きがあるがもちろんそうではない。厚労省が薬害の記録を作るということで大阪の映像会社が請け負っているのだ。患者の体験談なんかを証言映像として収録する。大抵5分とか10分で話は終わるだろう。

僕の場合、一歳の時のことだから、何も覚えていない。話すとすればこれについて調べたことになるので、長くなりますよと言ったら、長くなっても構わないと言う事だった。ならばと言うことで出演が決まった。本当に長々としゃべるつもりだ。一人でしゃべるのも芸がなさすぎるので娘をつき合わせて対談することにしたというわけだ。娘は広報関係の仕事をしていたので、写真を撮られたり映像出演することに慣れている。

結局、2時間くらいで、スタジオ(といっても実は会議室に機材をもちこんだだけ)の予定時間がオーバーしてしまい、続きはまた次の機会にということになったのだが、このために東京の下町散策ができた。場所は御徒町。小さなお店がいっぱいあって、古くからの下町であることがわかる。商店街が健在なところだ。さすが東京の下町。

評判の高い寿司屋があり、値段が高いのだが、せっかくだから奮発してここで食うことにしていた。しかし、行ってみるとなんと定休日だった。その店の近くで、ふと見ると「雷おこし」の本店というのが目についた。「東京土産」を買ってかえるのも趣向かなと思い入ってみると、なにか高級ホテルのフロントのような雰囲気に驚いた。ネクタイを締めた背広の店員が対応している。売っているのは「雷おこし」だけ。他には売りものがなく、これ一品だけで営業しているのだ。他にも結構お客がおり、みんな「古代」と銘打ったこの「雷おこし」を買っている。専門店の極致だろう。さすが東京の下町。

上品なデザインの箱詰めのものが売れているようだったが、どうせ食べるのは我々だけだから、一番小さなバッグに入ったものを買うことにした。「270円です」。え、雰囲気に合わない値段だ。笑うこともなく生真面目に応対するし、丁寧に紙袋にまで入れてくれる。帰ってこのおこしを食べたら、非常にうまかった。もっと沢山買って来るべきだったと思った。調べて見ると、この店の雷おこしは普通のものではなく、知る人ぞ知る逸品なのだということがわかった。さすが東京の下町。

このお店で、高級寿司屋が休みなのだが、他にお魚が美味しい店はないかと聞いてみた。「ちょっと、庶民的な店になりますが、真澄というお店がお魚が美味しいと評判でございます。」あくまでも生真面目な口調。行ってみると居酒屋風の店で諏訪の清酒真澄が売り物らしい。ちょっと庶民的どころか庶民的そのものという店だ。高級寿司の代わりとして来たはずなのだが、対極的すぎることになってしまった。落差が激しい。さすが東京の下町。

のれんをくぐって中に入ると、カウンターとその向かいには畳敷きにテーブルが並べられ、無造作に座布団が置いてある。メニューは壁にべたべたと貼ってある。寅さん行きつけの店といった、雰囲気だ。昼時だからランチ営業をやっており、定食を食べることになる。「さば煮付け定食」「焼きさんま定食」を注文した。税込み750円、先払いだそうだ。さすが東京の下町。

しかし、確かに味は良い。さばの煮付けとしては最高のものだ。これは人気があるだろう。昼時だから、続々と人が詰めかける。近隣の中小企業のサ従業員だとか、商店の親父さんみたいな人が多い。混んできたから、さっさと店を出たが、多分これから満席で行列ができるだろう。いや、今日は東京の下町の雰囲気が満喫できた一日だった。さすが東京の下町。

ゼロの焦点ーーアラ探ししているわけではないのだが [日常日記]

抗がん剤の投与が始まって身動きならない連れ合いにつきあって家で過ごすことが多い。つれづれに、DVDを借りてきて映画「ゼロの焦点」を見た。僕は元来推理劇と相性が悪い。ファンタジーなら荒唐無稽でもよい。だが推理物はなまじ論理的なストーリー展開を売りにするものだから、ついアラが見えてしまう。

新婚の夫が金沢に行ったまま行方不明になる。金沢支社に勤めていたのだが、本社に戻り見合い結婚した。金沢へは後始末に行ったのだ。夫を探しに金沢に行くが手掛かりがつかめない。金沢の下宿先は一年前に引き払っていた。手助けに来た義兄が殺され、一緒に探してくれた夫の同僚も殺されて謎が深まる。

実は夫は、立川で警察官をしていたことがあり、その時にアメリカ兵相手の二人の売春婦と知り合った。金沢赴任でこの二人と再会したのだ。一人は地元名士の社長夫人になっていた。もう一人は田舎で海女をしていた。結婚前の一年、夫は海女と同棲していた。社長夫人が自分の過去を知っている夫を殺したのだ。義兄や同僚は、夫を探しているうちに社長夫人の秘密を知ってしまったから、やはり殺された。

社長夫人は弟を一緒に住まわせていた。嫁入りに弟を連れてくるという変な設定だ。どうやら二人は戦災孤児らしい、だとすると大学まで出た才色兼備のキャラクターと矛盾する。原作にはなく、盛り上げのために勝手に入れ込んだ人物だとわかった。社長が妻をかばうために自分が犯人だと名乗り出て、警官の銃で自殺するのが終局だが、これもおかしい。赤いコートの女が捜査線上に上がっているのだから、こんなことで庇えるはずがない。これも原作にはない演出だった。

シーンを盛り上げるために、なりふり構わず場面を作ってしまう。少しは考えればいいものを。ちなみにこの映画は1961年に一度作られ、見たのは2009年二回目に作られたものだ。驚いたことに、原作から起こさず、1回目の映画をもとに、さらなる脚色で映画を作っている。だから辻褄の合わないところも引き継いでしまっている。なんといういい加減な脚本だろう。

では原作が万全かというと、そうではない。義兄や同僚の死が謎になるのは、彼らが何も情報を残さなかったからだ。普通、何か発見したら周りにしゃべる。だから、社長夫人が二人を殺して秘密を守ろうとする動機はおかしい。殺したってばれるに決まっている。そもそも、本社に戻って金沢から離れてしまう人物を、この期に及んで殺さねばならないという理由がない。話が混乱するのは夫が海女に偽名を使っていたからだが、なぜ偽名を使わねばならないのだろうか。

松本清聴のゼロの焦点は推理小説として評判の高いものだ。それでさえこうだから、横溝正史など読めたものではない。まあ、小説というのは何にしろ難しい。リアリティーを持った創作を作り出すのは至難の業なのだ。実は僕も小説めいたものを書いてみたことがある。近所に高層マンションが建つことになって、それを阻止した話だ。創作を交えてドラマチックな展開を考えてはみたが、結局、ありのままを書いただけに終わった。小説という形をとったのはペンネームで訴訟をさけるためだったにすぎない。

僕は小説の愛好家ではない。すぐにケチつけをしてしまうから、読んで感心したことがあまりない。ケチのつけようがなかったのは森鴎外くらいのものだ。鴎外の歴史ものは、丹念に調べあげて、資料を創作で補うもので、これは納得できる手法だ。創作部分も見事なもので、渋江抽斎では夫の危機を救うため裸で飛び出した妻を描いている。司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で同じことを書いているが、もちろん鴎外をパクったものだ。全くの架空のことを、いかにも事実であるかのように仕上げるという意味では芥川龍之介が秀逸だ。こういった人たちの業は、映画脚本家ごときにまねのできるものではないということだろう。

年金生活入門-----貧困老人恐怖症 [日常日記]

退職して年金生活を始める時には戸惑った。なにしろ老人になるのは初めてだから、不安は誰にもある。貧困老人だとか熟年離婚だとか騒がれると気になるものだ。確かに、最初に年金をもらった時、少なさに驚いた。政府広報で「給料の60%くらい」と言われているのを信じていたら、足元をすくわれる。賞与とか経費とかを引いた可処分所得の60%と言う意味なのだ。つまり、まあ40%がいいところだ。

ああ僕もいよいよ貧困老人の仲間入りかとも思ったが、それも早計だ。収入が40%であっても、必要な支出が40%なら慌てることもない。多くの人にとって、長らく支出の多くを占めてきた「子供の学資」「家のローン」「将来の備え」が無くなったのだからこれは大きい。

三番目の「将来の備え」についてよく理解しておく必要がある。現役の時は、多かれ少なかれ失業のリスクがあった。会社の倒産やリストラに合うかもしれないし、失敗で詰め腹を切らされないとも限らない。収入は絶対確実とは言えず、一方でどんな場合でも家族は養なわなければならない。だから貯金や生命保険といった蓄えは必須だった。しかし、年金は何をやっても増減しないというものだ。年金が少ない場合、どんな努力をしても、もはや増やしようがないということで、絶望的にならざるを得ない。しかし年金が収入として確定されれば絶対的な安定性があり、例え犯罪を犯してさえ変わらないのだから、不安要素に備えた蓄えがいらなくなる。この違いは大きい。

人生は様々で年金は40年の積み重なりだから大きな格差が生じるのが当然のはずだ。しかし、大きな波風なく普通に定年まで働いてきた人の場合、大体基礎年金が5万、厚生年金が15万、これに妻の基礎年金5万が加わって合計25万円の年金ということになる。給料の格差は大きいのだが年金はそんなに変わらない。だれもが若い時の初任給は似たようなものだからだ。給料が安かった人の場合、共稼ぎが多いから、年金は2倍になる。結果的に、多くの人が二人で20万から30万に収まる。これは統計からも明らかだ。

さてこの年金で暮らせるかと言うことだが、証券会社などが、生活費が28万円必要だとかで不安を煽っているが、もちろんこれは投資に引き込むためのウソだ。中身を検討してみればすぐわかる。実は僕は最近まで家計は連れ合いに任せっきりで、どうやりくりしているのか全く知らなかった。一人で出かけるなどと言うことはほとんどなかったから、自分では財布も持っていない。連れ合いが寝込んで、買い物を僕がするようになってやっと家計の実態がわかって来たのだから、あまり偉そうなことは言えないのだが、大体のことはわかる。

家計には固定経費がある。我が家で最大のものは政府に取られる金だ。国民健康保険、後期高齢者、介護保険、税金を合わせると月に45000円と言うことになる。水光熱費は18000円弱、車の点検ガソリン代などが15000円、ボロ家はあるから住居費は5000円、情報通信費が10000円といった所だ。携帯電話は使わないし、テレビも見ないけど新聞は2紙取っている。これに被服・日用品10000円を加えて103000円が固定経費だ。準固定経費として食費があるがこれは月47000円位だから、合計で15万円。ブログを検索して見たのだが、これらは、大体似たようなものだ。いくら豊かであっても、ここまではあまり変わらない。

とりあえず、この固定経費が支出できれば苦労なく生きて行ける。ちょっと工夫すればもう少し圧縮できるだろう。月15万なら国民年金だけででは、ちょっと厳しいが、資産を取り崩したり、切り詰めればなんとかなる。年金が少ない場合には政府に取られる金が減るようにできている。年金というのは、最低限の生活に追い込むが、「生きさせろ!」という暴動は防ぐというように巧妙な設計がなされているように思う。実に嫌な設計だ。

統計的に見れば多くの人が二人で月15万以上の年金を確保しているから、貧困老人の心配はない。月28万必要だなどとだまされてはいけない。平均的な年金との差額2人で10万円余りが裁量の範囲になる。これをどう使うかが年金生活のポイントなのだ。これで趣味や旅行、酒といったものを賄うことになる。退職金などの資産があれば裁量の範囲はさらに増えて、これが意外に大きい。ここをよく理解せずに貧困老人恐怖症に陥っている人があるが、冷静に考えるべきだ。

資産の取り崩しでよくある間違いは、余命の過大評価だ。定年までに5000万円貯めないと貧困老人になるといったウソはこれを基にしている。100歳まで生きるとして40年で割るというのは愚である。80を過ぎれば、健康であってもアクティビティはなくなり、うまいものを食ったり、旅行に行ったりはできない。20年で割るというのが正解だ。しかし、必要経費を資産で補う場合は40年で割らなければならないから、ここが大きな分かれ目ではある。

病気になった場合はこの裁量資金は医療費になる。高額医療費制度があるから医療費が月5万円以上になることはない。寝込んでアクティビティが減った分で十分賄える。80歳以上で裁量資金を想定していない時点でも高額医療費44400円+780(食費)x30日=68800円を固定経費から転用すればいいのだ。よく保険会社が入院すると1日1万円かかると脅すが、これもウソだ。

もちろん、国民年金だけで家賃も払わなければならない人がおり、厳しいのはわかる。しかし、多くの、つつがなく人生を送って来た人が貧困老人になるというのはあまり心配しないで良いことなのだ。事例を見ると、焦って株で稼ごうとしたり、生きがいの懐失からギャンブルに走ったり、子供が自立してくれなかったりという事故的要素が絡んでいることが多い。これは別に年金生活に限らず現役だって起こることだ。

しかしながら、最後はどうするかということはやはり考えなくてはならない。特別養護老人ホームに入れれば、上記の固定経費の転用で済むが、有料老人ホームの場合、全年金をつぎこまなくてはならないかもしれない。ま、その頃には他に使い道はないのだからそれでいいか。問題は有料老人ホームはピンキリで料金格差がはなはだしいことだ。うたい文句だけで、入って見たら、設備が立派なだけで、何のサービスもなかったなどということも多々あるらしい。

人生の週末段階については研究の必要がある。それには、実際に老人ホームに入っている人の話を聞くのが一番だろうと思って検索してみたのだが、老人ホーム入居者のブログというのが一件も見つからなかった。なんと言うことだろう。ま、僕の場合、病気を抱えているから、老人ホームのお世話になるまで持たないことは確実だから、そんな心配をすることもないか。

痛みはあっても、お花見にはでかける [日常日記]

水曜日が化学療法の日だから、副作用が減る週明けに連れ合いは一番元気になる。筍ご飯のおにぎりを作ってお花見に行こうと言いだした。ここしばらく、出かけるというようなことはなかった。圧迫骨折した背中の痛みも今日は少ないらしい。

空は晴れている。出かける先は家からほど遠からぬ記念公園だ。大きな広場は一面の芝生なのだが、その周囲を桜の木が取り囲んでいる。明るい陽ざしをうけて、「あでやか」と言う表現がぴったりな桜の美しさだ。花を満載した枝の下に立って見上げると、花の世界に引きずりこまれるようだ。

願わくば花の元にて春死なむその如月の望月の頃

良く知られた西行法師の歌だが、旧暦だから丁度今の季節だ。しかし、この歌の「死なむ」には納得できない。ここはどうしても「生きむ」だろう。この花は生きる喜びを与えてくれるものだ。彼女が骨折の痛みを我慢しておにぎりを作ったのも、この花に元気を貰いたかったからに違いない。

桜の花の寿命は短い。週末はお天気が悪かったから見逃した人も多いことだろう。今週の週末にはもう散っているはずだ。短い命を惜しまれるからこそ美しいのかもしれない。人間の寿命も長いようで短い。花のように美しく散るということは出来ないが、精一杯生きれば、自分の心の中では満足の行く一種の美しさが得られるのではないだろうか。

桜を楽しんだのも束の間、帰ってきたら、また痛みが出てきたようだ。ちょっと顔をしかめたリして座り込んでいる。しかし、しばらくぶりで出かけられたことは良かった。

僕も、得意の携帯用アルコールランプを持ち出して、あたたかい陽ざしの中で、お茶を沸かすことができた。本当はコーヒー党なのだが、コーヒーはちょっときついという連れ合いに付き合って今日は紅茶だった。旅先で息をのむような景色を眺めながらコーヒーを淹れるというのが僕の定番の楽しみなのだが、彼女がが元気になって、また二人で旅に出られるのはいつだろうか。

まだまだ検査数値は高いが、薬は少しづつ効いてきている。もう少し頑張って見よう。連れ合いを励ましながらのお花見が、今日一日のたわいもなく大きな出来事だった。

あいつの誕生日 [日常日記]

今年もまたあいつの誕生日がやってきた。生まれは僕より3ヶ月ほど早いから、僕とは同い年で、もう古希を迎える。生まれながらの理想主義者なものだから、有る種の人達とは肌合いが悪い。実際に何度も殺されそうになったし、今でも隙あらばと絶えずつけ狙われている。

それでもなんとか生き延びて来たのは、人を引き付ける根本的な所での魅力を備えているからだろう。したたかなものだ。僕としては、生まれて以来共に人生を歩んできた間柄だから、一種の仲間意識さえある。僕だけでなく、多くの心ある人たちからも親しまれ、心の支えとなっている。

よく考えてみれば、僕たちの人権も、平等も、公正も、すべての拠り所はここにあるのだ。人は誰でも健康で文化的な生活をする権利があるし、主権は国民にあるべきだ。基本的人権は守らねばならない。武力で平和を維持するなんて言う浅はかな考えは捨てるべきだ。

日本国憲法と同じ年に生まれた僕は、こんなあたりまえの事を初めてはっきり謳った憲法に対する誇りが、いつも心の何処かにある。この憲法で臣民が初めて自立した人間となったのだ。

日本国憲法は誕生以来ずっと逆風の中に生きてきた。核兵器で世界の平和が守られるなどという非現実的な主張が繰り返された。軍備で国が守られるなどと、福祉も年金も削って惜しげもなく軍備に税金をつぎ込むようになった。

「現実主義者」どもが、憲法をコケにする度に僕はほぞをかんできた。それは、恰も自分の仕事が理不尽な理由で頓挫する度に思うあの悔しさと二重写しになった幻燈のようであった。

世の中は甘くない。道理がすぐに受け入れられる訳ではない。だがそれでも主張すべきは主張しなければならない。周知の通り、日本国憲法は生まれてこのかた、全面的に守られた事がない。

それでもこの70年程の間に、憲法の魂は定着を見せ、天皇元首制のような時代錯誤に対する支持は、影を潜めた。女性の参政権を否定するのは気違い沙汰と見なされる様になった。人権が侵害されたら怒りを持てるようになった。世界に唯一の先進的な平和条項をもつ日本国憲法は生きながらえているのだ。

あと少し、この日本が憲法の精神を当たり前のこととするまで。憲法を守っていく責務が僕らにはある。5月3日、今年もやってきた憲法の誕生日に、僕はそんな事を思い返す。

与謝野晶子を読み返す [日常日記]

絵日傘をかなたの岸の草に投げ渡る小川よ春の水ぬるき
中学生の時に国語の先生が大事そうに取り出して見せてくれた色紙に書いてあった歌だ。当時それが誰の作かも知らなかったのだが、与謝野晶子である。あの先生は与謝野晶子と親交があったのだろうか。先生は与謝郡の人だったから、本当に知り合いだったかもしれないがそうとも限らない。与謝野晶子の色紙というのは結構出回っている。子沢山で生活も苦しく、夫の鉄幹の洋行を支えたリするために色紙を書いては売っていたそうだ。

このところ、出かけることもなく家で過ごすことが多いから、与謝野晶子の歌集などをいくつか読み返している。この歌を今でも覚えているのは不思議だ。それほど印象が強烈だったということだ。これほどまでに春の季節感、明るい陽ざしを表現した歌はない。絵日傘という小物がうら若い女性、しかも美人を思わせる。着物の裾をたくし上げて白い足が見えている色っぽさまで眼前にせまってくる。中学生には刺激的すぎる内容だったかもしれない。
柔肌の熱き血潮に触れもみで道を説く人寂しからずや
こちらの方はもっと刺激的だ。それにしても、短歌という31文字の中に詰め込まれた言葉の表現力には驚かされる。
漁火は身も世も無げに瞬きぬ陸は海より悲しきものを
天才的な言葉の達人としか言いようがない。これを褒めるのは竹西寛子さんの受け売りになるが、陸は海より悲しいなどというハッとする表現がどこから出てくるのだろうか。全部で5万首というから湧き出すように次々と短歌がほとばしり出てきたことになるからそれだけでもすごい。どんな駄作だって5万も詠めるものではない。

明治から大正にかけて起こった浪漫主義。「たてまえ」一辺倒の世の中から抜け出して「ほんね」を吐き出す動きの先端を走ったと言える。「ほんね」を出す勢いが歌ににじみ出ている。

与謝野晶子を一番有名にしているのは、君死にたもうことなかれの詩だ。これは強烈な反戦歌だ。「人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」と戦争の本質は人殺しでしかないと指摘する。「旅順の城はほろぶともほろびずとても何事ぞ」。戦争で勝つことなど庶民にとってどうでもいいことだ。「すめらみことは 戦いにおおみずからは出でまさね」。戦争をやりたいのなら天皇が自分で勝手に行けばよい。

これほどまでに徹底した反戦の立場はないだろう。15年戦争当時なら確実に治安維持法で捕まっていただろうが、日露戦争当時はまだ言論統制が弱かったのである。しかし、当時有力な評論家であった大町桂月は教育勅語に反すると噛みつき、『乱臣なり,賊子なり,国家の刑罰を加ふべき罪人なり』と激怒した。

これに対する晶子の反論は、腰砕けである。反戦思想のどこが悪いと真正面から答えるのではなく、「ただ弟を心配しただけで、反戦は言葉のあやに過ぎません」と逃げているのだ。どうも、それが事実らしい。与謝野晶子はこれ以外に反戦詩と言えるものはない。それどころか、白桜集には「水軍の大尉となりて我が四郎 み軍にゆく猛く戦へ」などと息子の出征を激励している歌があるくらいだ。

思うに与謝野晶子はやはり言葉の達人なのである。「ほんね」を吐き出して弟を心配する気持ちを表現しようとしたとき、激烈な反戦の言葉が出てきてしまう。言葉を使うと言うより、出てきた言葉に自分が動かされてしまうのである。熟考し、人の命の重みを知って戦争に反対する立場を取ったのではなかったのではないだろうか。晶子の短歌は感情表現であり、思想表現ではなかった。

君死にたもうことなかれのあとしばらくはトルストイ流の平和主義的な発言が続いた。しかし、これも自分の言葉に引きずられた結果に過ぎないだろう。いくつもの評論を残しているが、読むに堪えない拙劣なものでしかない。大正デモクラシーの時代が過ぎて軍国主義が高まってくると、何の抵抗もなく戦争賛美に傾倒していく。夫の鉄幹はもともと熱狂愛国派で爆弾三勇士の歌を作ったりする人物だ。晶子は不倫を繰り返す夫に付き従う古風な女の域から出られなかった。思想的には鉄幹に引きずられたままだったような気がする。

これだけの才能を持った晶子が、本気で「君死にたもうことなかれ」の思想を深く突き詰めておれば、強烈な影響力のある作品を生み出し、あるいは世の中が変わったかもしれない。200万人の日本人と1000万人のアジア人の命が救われたかもしれない。無理な要求かもしれないが、才能を持った人には社会的責任を自覚じてほしいものだ。

天才でなくとも、専門分野を持った人にはそれなりの社会的責任がある。僕は一応科学者の端くれだから科学者の動向が気になる。最近の日本の風潮として、金のために軽々しく軍事研究に手を染めそうな科学者が出始めているのが心配だ。

インターネットを高速にしてみるか(1) GL01P [日常日記]

我が家のインターネットは古いEmobileルーターGL01Pだ。公称速度75Mbps。旅行にも持って行けるし、メールを出したりブログを書いたりするのには、これで十分だと思って使ってきた。月々3880円だから値段も安い。もともと僕がネットワーク接続を使いだしたときには電話機に音響カップラーをつけて300bpsの通信だったから75000000bpsは夢のような速さだ。webページごときにそんなスピードが要るはずがないと思うのだが最近のwebページは絵やリンクがやたら多くて情報量が多い。

だからやはりある程度の通信速度は必要なのだ。最近、月末になると極端に遅くなることが良くある。通信量に制限があって10GBを超えると制限に引っかかることになっているのだ。あまり動画を見たりはしていないのだが、宣伝が強制的に動画を見せるし、リモートデスクトップで研究室のコンピュータにつないだり、孫たちとskypeをするようにもなったから、データ量は増えているのだろう。

不思議なことに実際には10GB以上使える。通信制限を感じるのは20GB位になってからだ。思うに10GBで制限がかかってはいるのだが、気づかないのではないだろうか。75Mbpsが公称の速さなのだが、実際には15GBくらい使ったところで、30Mbps、昼間だと8Mbps。だんだん上限速度が下がって行く仕組みで、実際の通信速度以下になると遅さを感じるようになるのだろう。しかし、月末になって20MBに近づくと極端に遅くなりページの表示に5分もかかり使い物にならない。

まあ5年も使えば潮時だから、インターネット接続を新しくするかと考えた。ちょっと検索したら、すぐに嗅ぎつけたと見えて「nuro光]とか「フレッツ光」「wimax」といった宣伝がPCに表れるようになった。googleに心の中まで監視されているようで嫌な気持ちだ。

面倒がないのはEmobileのアップグレードなのだが、実は素直にアップグレードにならないという問題がある。新しい契約では容量制限は10MBではなく7GBに下げられてしまっている。オプションの容量制限解除に別途支払わなくてはならないから値上げになる。新しい契約の利点は通信速度が最新の機器603HWでは612Mbpsといった驚異的な速さになっていることだ。ところが実はこれにもトリックがある。

612Mbpsの規格でつながる基地局は限定されており、どこでもつながるわけではないとは書いてある。僕の地域にそういった基地局が配置されていないのは当然かもしれない。では、どこにあるかと調べて見ると、ほとんどどこにもない。東京都内にさえ一か所もないのだから驚く。ホームページには新しいルーターが「使える」地域を示す地図があり、これで見るとどこでも使えるように見える。ウソではない。どこでも「遅いルーター並みに使える」のである。「最高速度は理論的なもので実際の速度を保証するものではありません」を隠れ蓑にした悪質な通信速度偽装だ。ネットを検索すると「以前の機種より少し速くなった」というレビューがたくさんあるが、これは全部ウソである。

基地局が整備され612Mbpsの規格でつながったとしても、実際には回線が混雑して、せいぜい50Mbpsだと言うことだ。そうすると今の75Mbps規格以下だから実際には何も変わらない。渋滞のある道ではフェラーリもワゴンRも同じ速さにしかならないのだ。一方でデータ量制限はかえって下がる。一体何のメリットがあるのだろう。オプション料金を払えば容量制限が解除できるだけだ。もともと古いEmobileには容量制限などというものはなかった。途中で10GBの容量制限が加わった。容量制限を有料で解除するには新しい契約にして容量制限を7GBに下げねばならないというわけだ。

なんとも馬鹿馬鹿しい話だから、この際固定回線を引こうかと思う。こちらの方は少し高いし、事務手数料がいる。それにEmobleの解約金というのも加わる。電話も併せて変えると安いそうだが、電話とルーターが別の部屋になる我が家の場合、追加工事が必要なのだがその代金は契約後工事が始まってから教えるという変な話だし、工事に2か月もかかるというのだから、こちらもあまり気乗りしない。

固定回線だとルーターを持ち出すわけには行かない。ふらりと旅に出て、宿探しをするなどと言う時にインターネット接続は欠かせない。宿にWiFiがないことの方が多いから翌日の計画を考えるにも支障がでる。連れ合いの抗がん剤治療があり、この先どれだけそんな機会があるのかわからないのだが、どうしても可能性は残したいと思ってしまう。人間は希望の生き物なのである。

連れ合いの抗がん剤も効きがいまいちだし、「どうしようかな」とウダウダ迷う日が続いている。

----->インターネットを高速にしてみるか(2)に続く

インターネットを高速にしてみるか(2) 502HW [日常日記]

我が家のインターネット接続。現在のモバイルルーターGL01Pを使い続けるかぎり月10GBの制約からは抜けられない。新しい機種にしなければデーター量制限のない契約は出来ないのだ。しかし、古いルーターは速度制限の機構が不十分らしく、実際上は20GBくらいまで使えるから少し気をつけて使えば僕の用途には十分である。気をつけて使うと言うのもなかなか煩わしいもので、時々月末には全く使えなくなってしまう。

もう一つの問題はskypeには少し遅すぎることだ。引きこもり気味の連れ合いに孫とのskypeを楽しませてやりたいのだが、昼間だと、月始めの調子の良いとき以外は画面が固まってしまう。インターネット接続のアップグレードを試みることにした。ところがどうもそれが単純ではなさそうなのだ。

新しいルーターは速いことが売り物だが、これには期待できない。空間は1つしかなく同じ周波数の電波は時間で細切れにして多数のユーザーに振り分けられている。ユーザーが多くなれば割り当ては減る。通信速度は同じ電波を使うユーザー数で決まっており、実際の速さは機器の最大速度とはあまり関係がないからだ。渋滞のある道ではフェラーリも軽自動車も同じ速度なのと同じだ。

しかしよく調べて見ると多少希望が持てることがわかった。現在の機種が使っているのは1.7GHzのLTE通信だ。その後ワイモバイルの周波数帯は増えて、2.5GHzや2.1GHz、800MHzなどが使えるようになっている。スマホやタブレットが増えたから、どの帯域も混んではいるのだが、新しい機種はキャリアアグリゲーションの技術を使って比較的空いた周波数帯を見つけて使うようになっているということだ。だとすれば多少は通信速度も早くなるかもしれない。

月末のデータ量規制のほうは、オプション料金を払えば、アドバンスモードにして解除することができる。しかし、データ量制限を回避するには、いろんな周波数帯を使うのではなく、2.5GHzに固定してそれ以外の周波数を使わないようにしなければならない。速さとは矛盾する。なぜ2.5GHzのAXGPでデータ量制限を解除するかというと、2.5GHzの電波は遠くに飛ばないからだ。直進性が強く、障害物を廻りこめないから、結果的にユーザーの数が少なくなる。だからデータ量を制限しなくとも何とかなるということらしい。逆に言えば2.5GHzはつながりが悪く途切れることが多いのである。

そもそも僕が住んでいる地域で2.5GHzの電波が来ているかどうかが定かではない。web pageの地図では新しい機種に対応した地域ではあるが、これは2.5GHzが使えることを意味しない。新しい機種は多くの周波数帯が使えるからだ。どれか1つでも使えれば適応地域になってしまう。地図とは別に公表されているリストによると僕の住んでいる地域の「一部」で2.5GHzが使えるとなっている。

「一部」なのかどうか会社のサービス窓口に聞いてみたら「地域個別の様子はわかりませんのでお近くのショップでお聞きください」ということだった。ショップに行ったら「僕らもネットで見るだけです。それ以上の情報はありません」と言う答えだ。

機種変更をすると料金が増えて制限値が下がることだけは、はっきりしているが、データ量制限が解除できるかどうかはわからないし、早くなるかどうかもわからないということだ。しかも一度機種変更をするともとには戻せないそうだ。客にいちかばちかやって見ろ、うちでは責任を持たないという姿勢だ。これは困った。

僕自身の判断としては使えると思う。2.5GHzは吸収合併でYmobileがウイルコムから手に入れた周波数帯なのだが、僕は昔ここでウイルコムのPHS接続を使っていた。だから設備はあって2.5GHzは来ているに違いない。もし2.5GHzが空いておれば問題は解決する。意を決して、ワイモバイルショップに機種更新を申し込みに行った。

ところがである。「お客様の契約は機種更新できません」というのだ。僕が購入した当時Y(yamada) mobileとして販売されていた。ヤマダ電機が主体でそれにEmobileが機器を提供していたのだ。ソフトバンクがEmobileを吸収して直接販売に乗り出したが、ヤマダ電機契約のものは取り扱いができないそうだ。今ヤマダ電機は専らwimaxを扱っている。

ヤマダ電機に連絡を取ってみると、一応機種変更ができるようだが、本社を通じての交渉になるから時間がかかる。どの機種も在庫はなく最新の603HWや504HWは難しいが、少し古い502HWなら手に入る。Ymobileから取り寄せるため一週間ほど待てと言われた。機種変更するとまたヤマダ電機と3年の契約になる。3年後にどんな取り扱いになっているかが心もとない。

さらに問題がある。今月すでに9GB使っているから、7GB制限の機種に変更すると最初から速度制限がかかってしまい、アドバンスモードには来月になるまで切り替えられないと言うから何のための機種変更かわからなくなる。しかも旧ルーターのあいまいな速度制限とは異なり、ぴっしりと128Kbpsに落とすというからたまらない。

月末まで待って機種変更するのも仕方がないか。下手をすれば、ネットワークを使えなくするために、余分なお金を払って、3年間の契約をすることになりかねない。それでも、ボーッと一日過ごしている連れ合いの様子を見ると、孫との会話などで元気づけてやる可能性があればそれに賭けたいと思ってしまう。ヤマダ電機との契約が終了するまで待つことは出来ない。

----->インターネットを高速にしてみるか(1)

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古い写真のデジタル化 [日常日記]

どこの家にも古い写真がたくさんあるだろう。80年代、90年代にはカラー写真が普及して、プリントも安くなったから多くの写真が残っている。連れ合いがアルバムを作っていたが、写真が多くなり過ぎで、かなりの写真が箱に入ったまましまい込まれている。整理をしようと思っても、色あせた写真が多い。当時のプリントの質は高くなく長期の保存には耐えられない。

カラープリントが長期の保存には耐えられないとわかってはいたので、僕は長く残したいと思う写真にはスライドフィルムを使うことにしていた。アルバムのように手軽にいつでも開けられないし、プロジェクターで映すにしても、昼間は明るすぎてダメだから、夜に限られ、連れ合いからは評判が悪かった。しかし、これが功を奏して40年後の今も色はかなりの鮮やかさを保ってくれている。

しかしながら、手軽に見られないという難点は相変わらずだし、この先だんだんと色あせていく事は避けられない。昨今の写真はデジタルファイルだから、保存に問題はないし、テレビ画面に大きく映すことも出来るから絶対優れている。この際、古い写真をデジタル化しておくのがいいだろう。第一、デジタル化すれば場所も取らなくなる。

出始めの頃のスキャナーは300dpiで、プリントした写真しかスキャンできなかったが、最近は2400dpiつまり100分の1ミリ単位の読み取りができ、スライドフィルムを直接読み取ることができる。高分解能のスキャナーを手に入れて実際にやって見たらスライドが見事にデジカメ写真に返還された。これはいい。

ところが実はここに大きな問題があった。それは時間がかかることだ。スキャナーはA4の大きさを持っており、2400dpiでスキャンするとかなりの時間がかかる。必要なのは35mmの範囲なのだが、仮スキャンして位置を定めなければならない。フィルム面は帯電して埃が付くから、ふき取りも必要だ。結局、一枚のスライドに5分くらいの時間がかかる。

1000枚近くあるスライドをデジタル化するには相当な根気がいる。暇に任せて連れ合いにゆっくりやってもらおうかと思っていたが、抗がん剤治療が始まった今、とてもそんな元気はない。僕だって10時間もスキャン作業を続ける気力は失せているから、正直、降参するしかない。

世の中にはこういった需要があるのだろう。「フィルムスキャナー」という商品がある。数千円くらいからあり、簡便にフィルムをデジタル化できる。これはスキャナーとは言っているが、フィルムを透かして見て内蔵のデジカメで写すものだ。画素数から言えば2400dpiに匹敵するのだが、内臓のデジカメのレンズがいい加減だからピントが甘い。一般に接写のピント合わせはなかなか難しいものだ。結局かなりぼやけた写真になってしまう。評判は良くない。

一方で、デジタル化ビジネスというのもあることがわかった。フィルムや写真を送ればデジタル化してくれるのだ。納期を急がなければ一枚25円といった安い価格で引き受けてくれる。1000枚で25000円だ。根気がなくなった自分の現状を考えるとこれくらいの出費は惜しくないような気がする。一枚5分かかるとなると時給300円の仕事だ。

ん? そんなビジネスがあるか? ひょっとしたら。「フィルムスキャナー」を使ってピンボケ写真を作ってくれるだけなのではないだろうか?ネットを検索してどんな品質に仕上がってくるのかを調べて見たがあまり情報はない。古い写真をどうするか。なかなか結論が出ない。

夏の日にひとりで迎える古希の朝 [日常日記]

今日僕は70歳になった。連れ合いは入院中であり家の中には一人しかいない。そういえば還暦の朝も僕は一人で病院のベッドに寝ていた。間質性肺炎の急性増悪の最中だったからだ。あれから10年を生き延びたことになる。あの時立てた父の年齢を超えるという目標にあと2年まで近づいている。

酒債尋常行處有人生七十古來稀。古希という言葉の由来となった杜甫の詩だが、酒代の借金だらけだけどかまうものか、どうせ70歳まで生きることはめったにないのだから今のうちに楽しむべきは楽しんでおかねばと言う内容だ。そのめったにないことに到達したのだから幸運というべきだろう。

統計でみると、僕の同世代の男は70歳までに1/4が死んでいる。幼なじみの友人には60歳前後で亡くなったやつが多い。ちっ、顔を思い浮かべてみると若くて元気な姿しか思い浮かばない。大学の同級生は不思議とみんな元気で、いまだ現役で活躍している奴も結構いる。しかし、今後80歳までに半数が死ぬことになるはずだ。僕もその一人だろう。

連れ合いの入院は二回目である。正直、一回目の入院は僕も困った。なにしろ、家事は全て彼女に頼っていて、僕は買い物すらしたことがなく、どう生活したらいいかわからなくて不安だった。今回は違う。毎日食事も作っているし、昨日は洗濯機も回した。彼女の体調不良で僕も訓練されてしまったから、何でもできて生活に不安はない。

それが悲しい。洗濯した着替えを病院に持って行ったら「ありがとう」と言われてしまった。僕はこれまで「ありがとう」などと言われることをしたことがなく、「どうしてこんなことができないの、ダメねえ」と言われるばかりだった。自然と出来上がった家の中の役割で、僕はダメな夫でいることが心地よかったのではないだろうか。まあ、彼女に甘えて過ごしていたということだ。

今日からカイプロリスの点滴が始まる。心臓への負担をモニターするための入院だが、担当医との面談で、副作用が軽いわけでもなく、効果があったとしても、体力的に自家幹細胞移植は難しいかも知れないと言われてしまった。抗がん剤投与と副作用との戦いが際限なく続くというのはあまりにも厳しい。

強い倦怠感で、読むことも、聞くことも楽しめず、何を食べてもおいしくないといった状態なのに、「現状をなるべく長く維持することが治療の目標」だとは納得できない。
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盆だとて一人暮らしの夕ご飯 [日常日記]

お盆は先祖を祭るといった日だが、あちこちから帰省した親戚が集まり、にぎやかに夕餉を囲むというのが近年のあり方らしい。高速道路も新幹線もラッシュとなっている。しかし、連れ合いの入院で一人暮らしになっている僕は、そういったお盆の行事とは無縁だ。夕食も一人で食べるしかない。

当初は一人なら外食と決めていた。しかし、一人でレストランは間が持たない。料理が運ばれてくるまでの間、することもなく黙って待つのはつらい。さらに問題なのは食後だ。腹がくちて、しばし、まったりと休みたいのだが、一人だとそうもいかない。せかされるように、そそくさと店を出て家路につかなければならない。

やはり、家で食いたいから、弁当を買って来る事にした。しかし、弁当というのは「かきこむ」といったイメージがあり、どうも落ち着かない。いろんな弁当が売ってあるが、結局はみんな同じような味なのですぐに飽きてしまう。ブログを見ていると弁当で済ましている人がかなりいる。面倒を省くという意味では、コンビニで弁当宅配と言うのもあるようだ。しかし弁当ごときに1000円もかかるのはいかにももったいない。

今のところ、毎日3000歩歩くというルールを順守するために、毎日買い物に行く事にしているが、いずれ買い物に出かけるのが容易でなくなるかもしれない。その時は生協にお願いしようと思っている。栄養バランスも考えてあるようだし、値段も500円見当で、老人世帯には無料で配達してくれるということだ。コンビニの弁当を配達してもらうなどと言うのは愚策だろう。

弁当でとりわけまずいと思うのはご飯だ。コストダウンのために、安手の米を使っているから仕方がない。この点に関して、僕はすでに対策を確立している。土鍋で0.5合を炊くことができる。やはり炊きたてのご飯は美味しい。問題のおかずだが、これはスーパーに出来合いのものが豊富にそろっていることがわかった。僕が一人暮らしをしていた学生時代とは決定的に違う。

冷凍食品もそんなにまずいものではない。同じラーメンでもインスタントより冷凍食品のほうがかなり旨い。保存料などの添加物も冷凍食品には少ない。コストの点では、レストランで食べると1400円くらいだが、ファミレスなら980円だろう。同じものが冷凍食品なら400円になる。ファミレスの味は冷凍食品以下だから、そんなところに行く必要はさらさらない。

更なる発見はスーパーのおかずは時間帯で値段が違うということだ。毎日朝晩二回病院に見舞いに行くのだが、帰りは7時頃になることが多い。僕の夕食時間は少し遅い。帰りにスーパーによると、おかずが値引きされている。今日の晩御飯は大きなカレイの煮付け450円が350円になっていた。コロッケ58円、和風サラダ45円、鰹節をかけて冷ややっこにする絹ごし豆腐2個で98円、それに味噌汁。味噌汁はインスタントだが、豆腐を入れると立派なものだ。大体一食500円で納まるし、弁当よりもはるかに満足度は高い。これなら例え国民年金だけでも暮らして行けるのではないだろうか。

それでも一人で食べる夕食はわびしい。わびしさ、味気なさを抑えるのは盛り付けであることに気が付いた。買ってきたものをパックからそのまま食べるのでなく、食器に盛り付けるのがいい。弁当でさえ、パックから出して茶碗に移し、お皿に盛り付けると、ご飯という雰囲気が出てくる。家族での団らんと一人暮らしの違いの一つは食卓に食器が並ぶかどうかなのだ。

だがしかし、僕は一人暮らしの工夫などしたくない。連れ合いが退院して食事を復活してくれるまでの辛抱なのだ。入院が長引いたり繰り返したりすることなんかあり得ない。そうに決まっている。
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階段に昇降機でも付けようか [日常日記]

連れ合いが退院してきて二週間になる。ベルケイドをカイプロリスに変えて、KD療法に切り替えた。副作用の原因だったレブラミドを止めている。まだ全ての検査結果が出ているわけではないのだが、KD療法が効いている兆候がある。IgGは617まで下がった。これは素晴らしいことだ。

随分と元気になって、またもとのうるささが復活している。「シャツを着替えろ」「チリ紙はゴミ箱に捨てろ」「風呂に入れ」「速く薬を飲め」「爪を切れ」「ひげを剃れ」等々、よくもこれだけ文句のネタを見つけられるものだ。

しかし、まだ足腰は弱ったままだ。僕もだんだんとステロイドによるミオパシーで筋力が弱ってきている。どちらも階段の上り下りが楽でない。何か対策を考えねばならない。二階を使わず、一階だけで暮らすとと言うのも一つの案だが、僕は気が進まない。この家を建てた時には、いろいろと考えて創意工夫があったのだ。それを無にするのは残念過ぎる。

二階に風呂を置いたのも、40年前には極めて斬新なアイデアだった。いくつかの住宅メーカーには拒否された。水物を二階に置くのはタブーだった。いまでは当たり前になっているが階段をリビングに付ける構造も当時としては珍しい。階段は玄関横に付けるものと決まっていた。いまさらリフォームで一階に風呂を作って二階の風呂を放棄するなど考えられない。

簡易なエレベータを付けてやろうかと考えて見た。要するにカゴをロープに付けてモーターで上げ下げすればいいのだからリビングの天井に穴を開ければいいだけだ。ところがである。どうもこれは法律で禁止されているらしい。エレベータには厳格な安全基準があって、建築確認の申請までもしなければならない。そのために建築技師による設計がいるし、定期安全点検の費用も負担しなければならない。家を建て直した方がましなくらいだ。

同じようなもので、いす式階段昇降機と言うのがある。階段にレールを敷いてその上を椅子が動く。階段に置くだけの「物」だから建築物ではないという解釈で、特に法律上の手続きはいらない。本当はこれも法律違反だ。階段の幅は規制があり、人が通れればいいからといって、30㎝幅にするわけには行かない。半間が最低幅らしい。レールを設置すれば幅が規定以下になるから、申請すれば認められないはずだ。

昇降機のメーカーに設置費用を含めての見積もりを依頼して見たのだが、設置は別に大工さんに頼んでくれと言われた。多分、直接工事をすると、建築法上の対応が必要になるからだろう。

実は、リビングから二階に上がる我が家の階段には問題がある。階段室のスペースを節約するために、上がり切ったところで90度曲がる「上曲がり階段」であるから上端部にある曲がりの内側は4段垂直で、通るのはもっぱら外側という代物なのだ。当然、真っすぐなレールを階段内側に乗せるわけには行かない。かといって外側に曲がったレールを付けてしまうと、歩いては登れなくなる。

ドイツ製の高級な階段昇降機は、急激な勾配変化もこなせるのだが、日本製と違って椅子が大きい。階段室下には酸素濃縮器も設置されているから、とおせんぼになってしまう。椅子は普段二階に置いて、必要な時に下へ呼び寄せることも出来るが、それでは待ち時間が長すぎる。

確かに昇降機の速度が遅いということは問題ではある。自力で登れるなら這ってでもその方が早いかも知れない。車椅子になってしまえば昇降機は使えない。どれくらい役に立つのか知りたくて、使っている人のブログを検索したりしているが全く情報がない。あるのは昇降機の売り手のブログばかりだ。

なんとか、壁を使ってうまく昇降機を付けたい。DIYで自分でやれば簡単だと思うのだが、それが出来るくらい元気なら昇降機なんかいらないだろう。なかなか引き受けてくれる大工さんが見つからないし、どれくらい役立つかも定かでない。階段昇降機をめぐって、しばらくあれこれ考えることになりそうだ。
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発明でお金を儲ける夢は消え [日常日記]

僕は十数件の特許を持っているが、どれ一つとして製品化されたものはない。実験装置の発明だから同じ研究をする人以外に使い道はなく、製品化されないのは当たり前かも知れない。ある時から急に大学や研究所でも特許を取ることが奨励されるようになって、仕方なく取って見ただけのものだ。「優れた発明」と「儲かる発明」は全く別物である。実は「儲かる発明」でなければ特許の意味はない。特許は発明による儲けを保護するためのものだからだ。僕には発明が儲けに結び付かなかった前歴があるということだ。

しかし発明・工夫というのは面白いものではある。実験結果よりも装置の工夫にのめりこむのが僕の悪い癖だったのだが、退職してからも、生活用品のの工夫を試みる癖は抜けない。磁石で車にくっつくカメラスタンドとか、駐車券を入れる伸ばし棒とか、ブログ自動巡回ソフトとか、寝床で本を読む書見台とか自分では良くできた発明だと思うのだが汎用性はなく、売れるものではない。その中でこれは「儲かる発明」ではないかと思うものが一つある。それはコーヒーファネルだ。

旅先でコーヒーが飲みたくなることがある。素晴らしい景色を眺めながら飲むコーヒーは格別の味だ。大抵そんな自然の中にコーヒーショップなどない。ここでコーヒーを飲めたらなあと思う。カンコーヒーといったものもあるが、そんなまがい物では満足できない。自分でコーヒーを淹れるのは、そう難しくない。水は割と簡単に手に入ることが多い。水とカップがあれば固形燃料でお湯を沸かせる。ペーパーフィルターなんか別にかさばるものではない。問題はフィルターを入れるファネルだ。重くはないがゴロンとした形でもちろんポケットには入らない。ポケットに入るコーヒーファネルというのが僕の発明だ。

4枚の板を組み合わせてファネルにする。はめ込みでうまく組み立てられる形状というのがポイントだ。ばらせば4枚の板だから全くかさばらない。実は折りたたみ式のファネルと言うのはキャンプ用品としていろいろ売り出されている。しかし、普通の台形フィルターが使えなかったり、金属フィルターで掃除が大変だったり、満足の行くものがない。しかも2000円とかの結構な値段だ。僕のファネルは熱に強いポリカを使うのだが原価は50円くらいだろう。1000円で売れば絶対売れる。これは特許というほどのものではないが「儲かる発明」だと思った。

これを商品化して売り出すビジネスを企てたのだが、いろいろ調べて見て結局は儲からないと言うことがわかった。それでも、少ない赤字なら、一度社長になって見たいという気持ちが有ったので、配偶者にバカにされながら、ちょこちょこと準備はしていたのだ。しかし、今日、ついにこの夢は消え去った。

紙製の台座付きの使い捨てフィルターと言うのが売り出されているのを見たからだ。お湯を注げばコーヒーになるインスタントのパックと言うのがよくあるが、これはまずい粉だから競合しない。しかし、コーヒー粉が入っていなくて、自分の豆が入れられるなら、こちらのほうが僕のより軽量で手軽だ。値段も10枚入りで300円だ。多分、キャンプ用の折りたたみファネルも売れなくなるだろう。

「儲かる発明」というのも難しいものだと言う事だけはよくわかった。僕は意地でも毎朝淹れるコーヒーには僕の発明品を使い続ける。使い慣れた器具で、普段と同じ調子で旅先でもコーヒーが飲めると言うのが唯一の言い訳だ
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大晦日、この一年を振り返る [日常日記]

無事に退院して、自宅で新年を迎えられることになった。なにもかも一段落したので今年一年を振り返って見ようと思う。2017年は「守勢」の年だった。緑内障手術からの帰還で始まり、次いで突発性難聴、配偶者の圧迫骨折と病院通いの毎日が続いた。多発性骨髄腫治療が始まった連れ合いは、副作用で身動きならない事態になってしまった。秋になってやっと治療の進展が見られ、副作用も治まった。ところが今度は僕の息切れが酷くなった。年末に入院してやっと晦日に自宅に帰れた。

この一年は病気との付き合いで終始してしまったと言える。旅行とかのアクティビティーはほとんどなかった。もともとこのブログは、病気を抱えながらもアクティブに動き回り、あちこち出かける元気な姿を自慢しようとして書きだしたもので、旅行記がその中心だった。その意味では今年は不作だ。気が付いたのは僕が全く国外に出なかったのは30年ぶりだということだ。仕事や遊びで、毎年必ず国外に出ていたことになる。

しかし、ポジティブなものが何もなかったかというと、そうではない。まず第一に僕にも家事が出来るという自信が付いたことだ。全く何もしたことがなく、「口を開けて待っているだけ」などと言われていたが、土鍋でご飯を炊くエキスパートになったくらいだ。本業の仕事では、2本の論文に共著者として参画した程度だが、この歳で何らかの足跡を残せただけでも良しとすべきだろう。学びとしてはプログラミングの腕が多少上がった。ベクトル・複素数クラスが自由に使えるようになったし、APIの理解も深まった。だからと言って何に使うというあてもないのだが、上達は嬉しい。趣味の歴史研究は5本くらいの評論を書いて、独自の古代史観を形成する見込みが付いた。

よく思い返せば旅行も、全くなかったわけではない。通院の合間を縫って、一泊の小旅行を3回やっている。旅行とは言えないが、孫たちの運動会や行事、講演を頼まれての大阪・東京への日帰り、姪の結婚式で神戸など、「お出かけ」は結構あった。一日3000歩歩くという課題も、年末に息切れするまではこなすことが出来た。

さて来るべき2018年。やはり元気に過ごせることが一番の目標だ。なんとか一日3000歩を年間通しで貫徹したい。連れ合いの自己幹細胞移植を成功させて二人でサンフランシスコの孫に会いに行きたい。すこし膨らませて、今度はバンクーバーまで西海岸を鉄道で行って、バンクーバーから横浜まで船に乗ることを企んでいる。鉄道に酸素濃縮器用の電源があることがわかったからだ。歴史研究はこれまでのものをまとめて体系的なものにしていきたい。

例年僕は年賀状に「謹賀新年、XXX年が良い年でありますように!」と書いて来た。今年も書こう。自分にも、そして皆さんにも、2018年が良い年でありますように!!!



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何だろう年末年始の世間並 [日常日記]

12月に体調を崩して入院となってしまい、いわゆる年末年始に出遅れてしまった。年賀状なども年が明けてから書く始末だ。ちょっと世間からはずれているようだ。これまで特にお正月の過ごし方を意識しなかったが、前から自己流だったかとも思う。それで今年は世間並をやって見ようと言う気になった。

世間並みの年末は「紅白歌合戦」らしい。実は我が家には、僕が子供の時を含めて、ずっと昔からテレビと言うものがなく、これまで見たことがないのだ。今年初めて「紅白歌合戦」なるものを見た。「日本電子台」というサイトがあって、これでテレビがなくともNHKが見える。

まあ、歌手が出てきてかわるがわる歌うという番組だ。なぜか、歌い手のバックに大勢の人が並んでいる。邪魔なだけだと思うが、これが紅白の特徴らしい。聞いたことがない若い歌手の歌が披露されたが、正直言って感心しなかった。年寄りだから新しいものを嫌うのだと言われそうだが、そうではないと思う。

メロディーが希薄でリズムも同じようなものばかりで新鮮味を感じない。女の子ならともかく、若い男が何人もきらびやかな服装で踊るのは見ている方が気恥ずかしい。歌詞がなんとも軽薄で付き合いきれない。さらに良くないのは歌詞の間に変な英語が混ざっていることだ。もう少しまともな英語にできないものだろうか。

色んな年齢層を対象にした番組だから、もちろん演歌もある。これはさすがにプロと言える節回しを聞かすのだが、この手の歌は昔から苦手だ。どの演歌歌手も40年前の古い歌を歌うのが不思議だ。とっくに飽きられていると思うのだが、今年もまた同じ歌が繰り返されることが安心感につながっているのかも知れない。結果的に、やはり年末は紅白だと言う文化には馴染み切れないことがわかった。

お正月で一番一般的なのは「お雑煮」と「おせち」だが、これは例年やっているから、世間並みに抵抗はない。圧迫骨折以来、長く立つのがつらくなっている連れ合いに「おせち」はなかなかの負担だと思ったのだが、今年も、休み休みしながら、全品目手作りでやり遂げてしまった。女の意地みたいなものを感じる。お雑煮は京町屋風の白味噌仕立て、必ず祝箸を使うし、塗りの「お重」を用いる。この点では我が家は世間並以上に伝統的かもしれない。

子どもの頃は、「凧揚げ」、「コマ回し」、「すごろく」、「かるた」が定番の遊びだったが、どうも最近は正月の遊びといったものがないらしい。路地で羽根つきと言うのもよくあったが、最近は見ない。羽根を落としたら顔に墨を付けるといった事もついぞ聞かない。我が家では2日に書初めをするが、これも一般的ではないらしい。鏡餅を飾ることがなくなったから「鏡開き」はないだろう。「七草粥」はやるのだろうか。小正月に「ぜんざい」を食べるというのはどうだろう。

正月の終わりは「どんど焼き」で、「お飾り」や「門松」などを持ち寄り、焚火で燃やす。これも全く見られなくなった。そもそも「お飾り」や「門松」がないのだから燃やしようがない。こういった正月飾りを省略するのが世間並なのだ。一方でクリスチャンでもないのにクリスマスツリーを飾る家が増えていると言うのだから不思議だ。

世間並みの年始でポピュラーなのはどうも初詣らしい。これもやったことがないのだが、混雑の中出かけるのは、病み上がりの体には無理そうだから、やめておくことにした。そもそも神社に詣でるにはある程度の宗教心が無ければならない。信じてもいないのに柏手を打って拝むなどと言う演技をするには勇気がいる。

大勢の人が神社に詰めかける。ネットでブログなどを見ると、初詣に行ったと言う記事が多いのに驚く。お金を出して御祈祷をしてもらう人まで結構いる。行列が出来て順番待ちで並ばねばならない。門松やお飾りの方が安上がりなのに省略することとのアンバランスがどうも理解しがたい。

うーん。一体何が世間並なのかわからなくなって来てしまった。
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