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マンガン電池に充電 [日常日記]

台湾旅行から帰って早くも一月が過ぎた。体調は悪くない。やはり膠原病・リウマチの活動には山谷があるようで、そろそろステロイドも減らせるかと思う。減らせる時に減らせて置かないと症状が出たときの増量が出来ない。

生活は日常にもどり、毎日出勤してコンピュータ相手にシュミレーション計算。実験する体力がないので専ら計算だけで仕事にしなくてはいけない。9月にフランスで国際会議があり、ここで講演することになっている。最後の講演だろうからできればきっちりした報告をしたいと思うが、なかなか進まない。計算に時間がかかって、結果が出たときには何を計算していたのか忘れてしまっている。思いつきではなくもう少し、戦略的に取り組む必要がある。

僕はここ何年か電池を沢山買った。酸素の同調器がバッテリー駆動だからだ。考えてみれば、ほとんど室内なのだから電源はある。試みに6VのCD用の電源をつないで見たらうまく動いた。電池と並列に使うとニッカドなら充電できるはずだ。使っていたのが安いマンガン電池だったのだが、面白いことにマンガン電池でも少しは充電できることがわかった。電圧低下で警告が出てから充電したのだが、寿命は4日ほど延びた。新しいマンガン電池でどれくらい持つか試してみよう。通常は一週間足らずで無くなるのだがどうなるだろう。

その昔、真空管回路のグリッドバイアスに電池を使った事がある。カソードにも抵抗が入っているので、入力があれば充電される。これでマンガン電池でもほとんど交換の必要はなかったと覚えている。うまく行けば電池代がかなり助かるし、震災で電池不足になってもあわてなくて済む。

<追記>
新しい電池で使ってみたら、一週間でダメになった。空けてみたら電池がパンクしている。過充電らしい。6Vの電源アダプターが6Vとは限らない。適当な負荷電流の時に6Vに成るだけで、大抵レギュレーションは良くない。測ってみたら無負荷では8.3Vもある。これでは電池もパンクするわな。手元にあったダイオード3本を直列に入れてみよう。これで1.8V電圧降下してくれれば6.5Vになるからパンクは防げるだろうと期待する。下げすぎると多分充電しないだろうし。
<追追記>
改作成功。今日で3週間だがまだ電池は健在。多少電圧低下が見られるがおそらく一ヶ月は持つだろう。電池12本相当だから1000円ほども節約したことになる。

次の車をどうしよう [日常日記]

今の車は1999年に買った初代ステップワゴンだからすでに12年乗っている。走行距離18000km。いくらなんでも、そろそろ買い替えの時だ。12年前はまだ家族も多かったし、犬の小屋も、僕の自転車も運ばなければならなかったのでミニバンは当然の選択だった。その前のボンゴに比べてうんと運転しやすい良い車だと思った。

大体、車の歴史というのはアップグレードで来るものだ。最初はシビック1200。次がシビックRSL1500。それから、アコード1600。ボンゴ1800と来てステップワゴン2000になったのだ。車が大きくなるときには、それなりに満足が増える。買い替えは楽しみな一面があった。

さて、今度は、どうせ2人しか乗らないし、僕も自転車には乗れなくなってしまった。犬はいないし、通勤に使うことも間もなくなくなる予定だ。どう考えても車を大きくする理由が無い。年金生活では維持費だって大変だから、むしろ小さくするのが順当なところだ。

こういう事情での次期の車種選定は難しい。カタログを見たりしても、「ワンランク上のこれにしましょう」なんて書きぶりばかりで、「ダウンサイズでこれがお勧め」なんてのは無い。どれもこれも小さいだけではなく、安っぽくなっているように見える。

思い切った贅沢として高級車という選択もあるのかもしれない。同年代の人たちはと見れば、結構高級セダンに乗っている人がいる。しかし、考えてみればこの先そんないい車に乗ってどこへ行くのかの疑問が募る。やはり馬鹿にはなりたくない。そんなわけで、時期の車をどうするかは、具体的な選択以前にそもそも考え方が定まらない。実に困ったものだ。

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父の日にプレゼント [日常日記]

父の日だと言う事で、娘が一家でやってきた。プレゼントだと言ってスリッパをくれた。台湾旅行の時に履いていたスリッパがちびていたのを知っているからだ。五歳の孫もカードにお手紙を書いてくれたし、息子も夜中になってからではあるが電話をかけてきて「父の日ありがとう」などと言った。

まあ、最近は特にこいつらの面倒を見ているわけではない。かつて面倒を見てやっていた時には、「ありがとう」の「あ」の字も言わなかった。父の日だからといって特に何かあったわけではない。いや、こちらが今日は父の日だからとなにやら強制したことはある。

自主的に、父の日を意識してくれる事は、こちらとしては実は哀しい。要するに僕が哀れみの対象となったことを意味する。僕だって本当は元気で誰からも心配などされたくないのだ。いかんせん。現実は誰が見ても60を越えた老人だし、おまけに病気持ちの身体障害者だからなんともしがたい。

悔しいけれども現実は受け入れる。考えてみればもっと酷い事態もあり得たのだ。子供たちが全く独立してくれないという家もある。孫など望めないと言う家もある。最近の社会を見れば、子供たちが曲がりなりにも大学、大学院を経て、自分で家庭を持ってくれてているのは幸運かもしれない。

             私の望むものは 決して今の私ではなく、
           私の望むものは 私でありつづけることなのだ。
            今ある 不仕合せに 留まってはならない。 
             まだ見ぬ 仕合せに 今飛び立つのだ。
             私の望むものは、、、、、私の望むものは、、、、、
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年金倍増計画 [日常日記]

年金が心もとないことはとっくに知れ渡っているが、いざ自分が貰って見るといかにも少ない。国民年金部分も全部併せて、額面で月額22万円しかない。なんとか協会の調査では月額38万円なければ豊かな老後にならないそうだが、それには程遠い。

これでも上級といわれる職に勤続36年なのだから、多分少ないほうではないはずだ。他の人たちはどのように暮らしているのだろうかと思うが、考えてみたら退職金とか貯金とかがある。平均余命20年から言うと、2400万円の退職金なら毎月10万円使うことが出来る。

ところが、この方法は心理的に難しい。自分が何年生きるかはわからないので、だんだん貯金を減らして行く事が不安を煽り立てるからだ。だから38万円はいらないとわかっていても、「運用」を考えたくなる。運用にはリスクがあって、失敗したらどうなるかを十分考えなくてはならない。証券会社などは盛んに運用を勧めて、成功した場合の良さを強調するが、そううまくは行くはずがない。失敗しても食っていける人だけが「運用」を試みることが出来る。

僕の場合、いろいろと計算してみたが、家もあるので月22万円(実際は税金や介護保険が引かれる)でもなんとか暮らせる。昔は本とかの出費が多かったのだけれど、コンピュータを使うようになってこういった出費もなくなった。実際、インターネットと図書館があれば本を買う必要はまずない。ここまで進歩したコンピュータはもはや新型に買い換える必要もない。セキュリティー強化とやらで新型は使いにくいばかりだ。

よし、それでは「運用」して年金を倍増してやろう。

運用には株式投資とかいろいろあるが、素人がやって成功する確率は低い。株は基本的には、誰かがもうけた分だけ誰かが損する仕掛けだ。それで成功確率50%だと思ったらまちがいだ。多くの人は失敗して退場する。だから売り買いしている人たちはプロで,次のカモを手ぐすね引いて待っている。新参者が成功する確率は極めて低い。

それではプロに株式投資をやってもらう投資信託はどうかと言えば、これもやはりダメだ。株価の推移はプロであってても予測しがたい。投資信託の過去の実績を見ると多くは損失を出してしまっている。それでも運用会社はしっかり利益を取るのだから詐欺のようなものだ。

それなら自分で株式投資をしたほうがまだましだろう。十分研究すれば「アホな半数」から利益をむしりとる「賢い半数」になれないわけでもない。問題はどれくらい儲ければ良いかだ。当然ながら原資は多いほど利益は大きい。原資を減らしていかねば年金の替わりに使えない。使えばばそれだけ原資が少なくなるのだから、だんだん原資が少なくなる投資は難しい。貯金の食いつぶしと同じく心理問題の解決にはならない。いくら利益率が高くとも、資産は増えても可処分所得は増えないという結果になる。

見つけたのは毎月配分型の投資信託だ。しかも投資先は不動産になっている。つまり不動産を購入して賃貸で利益をあげるのだが、二段式になっており、不動産賃貸で利益を上げている投資法人に出資する投資信託だ。株の上下は予測不可能だが、プロならその法人の投資が成果を上げているかどうかはわかるはずだ。成果を上げている法人を選んで投資していくなら、大きなな損失はないだろう。

毎月配分型の不動産投資信託は意外と分配が良い。退職金の8割を信託すれば毎月20万円ほどにはなる勘定だから年金は倍増できる。これは未来永久に続くはずだし、受け取った分配金はまさに可処分所得になる。

そんなうまい話には落とし穴があるだろう。それも織り込み済みでこれに掛けてみようと思う。見たところ10年分くらいの配分原資があるようだから、悪く行っても、配分金総額は原資に値する。つまり資産を可処分所得に返還するようなもので、それならそれで良いと考えよう。完全に失敗すれば退職金が半分になるがそれは覚悟しておこう。なんとか暮らしていけるし、退職金は2割だったと思えば良い

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死後の世界はあるのか? [日常日記]

母の死をきっかけに死後の世界について考えてみた。いずれの宗教も死後の人間が行く世界のあることを前提として成り立っている。天国や地獄あるいは黄泉の国などというものがあるのか?6世代のコークとレプトン、ボゾンからなり、4つの力が支配する宇宙空間にそういったものの存在することを求めるのは難しい。

それでも、世の中には宗教を信じる人たちは多く、葬儀の時にはいやおうなく話をあわせなければならない。死後の世界のあることも、ないことも、証明するのは論理的には難しい。だれも行って確認した人はいないし、できることでもない。

宗教者はもちろん死後の世界を否定しないのだが、本当に死後の世界を信じているかと言えば疑わしい。本当にあの世があれば、何もこの現世にお墓を作ったりすることもない。さっさと現世を離れて死後の世界に集中すればよいからだ。彼らも本音では死後の世界に疑いを持っているのではないかと思う。

ところが、実は死後に世界はあるのだ。たとえ自分が死んでしまっても、この世界は残る。だからこそ死んでからの風評を気にしたり、死にざまの汚いことを嫌がったりする。殆どの人がこの信念に確信を持っている。しかし、これも確認することは出来ない。自分が死んだと同時に今自分が見ているこの世界も消えてしまうかもしれない。世界全体が自分の意識の中にある幻想かもしれないのだ。確認することが出来ないという点では同じように死後の世界である。

人間とは実に不思議だ。宗教者であろうとなからおうと、自分では確認できない天国や地獄には疑いを持ち、死後の現世界には、やはり確認は出来ないにも関わらず、確信を持っている。

母の足跡 [日常日記]

年の暮れも近づき、今年も終わりとなると、この一年は何だったんだろうかと振り返りたくなる。今年は母が亡くなった年であった。私と兄弟を生み育ててくれた他に、特に何か大きな足跡を残したわけでもない、ごく普通の人であったということだ。88歳で米寿を迎え、記憶力と体力をバランスよく失って、大きな苦しみもなく、静かにこの世から去っていった。

いつも明るく笑いを振りまく母だった。生まれは1922年、大正デモクラシーから昭和の戦争の時代へと進んでいく歴史の中に放り込まれたことになる。裏通りではあるが、四条烏丸まで走って30秒という京都の町のど真ん中で育ったのだが、亀岡から維新で出てきた士族の娘で、京府立第一高等女学校の高等科まで教育を受けたのだから、まあ裕福に育ったのだと思う。

京都の第一高女というのは、当時の最高水準の女子教育を誇っていたと言う。先生もなかなかのもので母の恩師には後に高名な学者となっている人がかなりいる。設備的にも室内プールがあったというから驚く。母も800m自由形で全国大会で神宮まで行ったと言うが、当時競泳のためのプールがある女学校など多くなかったから誰でも全国大会に行けたらしい。良妻賢母が当事の教育の目標だったが、母を見ればそれがしっかりと方向付けられていたことがわかる。

姿勢を正せとか勉強しろとうるさく言われるのがいやだったが、母のおかげで知らず知らずのうちに、夕食のあとは机に向かうという習慣が身についていた。これは感謝しなければならないだろう。後年、痴呆が出てきて、歩行も不自由になって、デイサービスのお世話になったが、そこでも、一生懸命歌い、折り紙をしてあくまでもいい子ちゃんを通しているのだから笑ってしまった。

母の年代の女性たちにとって女学校の思い出は格別に大きな意味を持っている。晩年は毎年の同窓会が最大の楽しみだったようだ。今のように自由な行動がなかったのだから学校生活は青春の全てだったのだろう。何十年も前の授業で習ったことを子ども達に聞かせた。僕の古文や漢文の知識は母親から聞いた以上のものではない。いろんな思い出話や先生のしぐさも実によく覚えていた。

おそらく、小さい時からいい子で通したのだろう。親戚からも可愛がられていたに違いない。嵐山の叔父さんにも可愛がられて、よく遊びに行っていた。女学校の宿題の日本画の仕上げに苦心していたら、叔父さんがチョッとだけ手を入れてくれて、それだけで見違えるような良い出来になった。

その作品を提出したら後日付箋が付いて帰ってきて、「全部ご自分でなさいましたか?」と書いてあった。先生は一目で違いを見たのだろう。叔父さんもすごいが、学校の先生もすごい。嵐山の叔父さんというのは神坂雪佳という号の日本画家なのだが、琳派のような絵を明治になってもまだ描いているのでは時代遅れでどうしようもなかっただろう。

ところが、数年前に神坂雪佳回顧展が国立美術館で行われるということになり驚いた。国外での評価が高まって日本に逆流したらしい。母が叔父さんからもらった牡丹を描いたお盆がうちにあるが、これも展覧会に並べられるような芸術作品なのだろうか。

母が嵐山の叔父さんの紹介で父と結婚したのは戦争の末期だった。父は医者ではあったが片足が不自由で徴兵されず大学に残って研究中だった。母は父に対してはあくまで従順で、面倒見がよかった。戦争中そして戦後はお嬢様育ちの母には辛かっただろう。勤務医としてあちこちに赴任する父と地方暮らしが続いた。

水道やガスもなく、井戸水を汲んで、洗濯をしていた。京都に帰りたいと思ったのだろうか、山影を見ながら涙ぐんでいる姿をかすかに覚えている。子ども達にしっかりと食事を与えることに終始気を使っていた。だから子ども達が無事に育ってくれたことが母にとって一番の満足だっただろう。

米寿のお祝いの時はもう、痴呆が進んでいたが、記憶力が薄れ、反応が無くなっただけで、周りの人や家族に迷惑をかけるなどと言うことは一切なかった。3人の子ども、6人の孫、2人のひ孫が全員集まった。写した写真はにっこりとして、仏様のような微笑が見られる。今、心から母に感謝して母の冥福を祈りたい。きっと安らかに眠ってくれていると思う。

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クリスマスソング [日常日記]

毎年この時期になると街のあちこちでクリスマスソングが聞こえる。駅やお店でBGMをクリスマスソングに切り替えるようだ。僕がクリスマスソングの中で一曲挙げるとすれば「I saw mommy kissing Santa Claus=ママがサンタにキスをした」だろう。

中学生の頃、自作のラジオでFENかVOAを聞いたときに流れてきた曲だ。誰が歌っていたか覚えていないが、張りのある少年の声で、日本の童謡歌手とはまったく違う、迫力のある歌い方にある意味でカルチャーショックを覚えた。

わざわざ、子どもにサンタクロースの扮装をしてプレゼントをする父親、そのサンタクロースが引き上げるときに、そっとキスをする母親。まさに50年代のアメリカンドリームといった歌だ。

プレゼントをするのにサンタの扮装までする経済的な余裕だけでなく、働きずめでない心の余裕、そして子どもが少し大きくなってもキスしあう夫婦の仲の良さがなければならない。

当時、クリスマスというのは子ども会の行事としてあったくらいで、あとはバーやキャバレーが盛んにパーティー券を売って、忘年会の続きの飲み会の季節だったから、日本の子どもたちにとって、この歌のようなクリスマスは夢の世界だった。

今も、この歌を聞くたびに、あの誰もが貧乏であったが、夢を持っていた時代を思い出す。懐かしい歌だ。

I Saw Mommy kissing Santa Claus,
underneath the mistletoe last night!
She didn't see me creep,
down stairs to have a peep!
She thought that i was tucked up
in my bedroom fast asleep.

Then I saw Mommy tickle Santa Claus,
underneath his beard so snowy white!
Oh, what a laugh it would have been,
If Daddy had only seen,
Mommy kissing Santa Claus last night!


Linuxをwindowsにする苦労 [日常日記]

10年以上にわたって使って来たvaio505がとうとう壊れた。電源ライトが点かず、立ち上がらない。電源系か、ひょっとしたら内部電池が弱っただけかもしれない。ノートブックは中を見るのが難しく、大抵プラスチックボディの爪を壊してしまうから、自分で修理するのは難しい。修理を依頼してみたら見事に断られた。部品が無いということだった。

仕方が無いので、手元にあったLinuxサーバーhp2120をwindowsPCにすることにした。windows2000のCDを持っているから原理的には問題はないはずだ。windows7の時代にW2Kなんてと思われるかもしれないが、windows2000はなかなか軽くてよいOSだ。文房具として使うならまったく引けを取らない。僕は10年このかたW2Kを愛用してきたのだ。わけのわからぬことを勝手にやるVISTAなんかよりずっと使いやすい。windows2000はCDが1枚あれば、ライセンスのややこしさはなく、何台にでもインストールできる。

サーバーをwindowsにするのは、実際にやってみるとなかなか面倒なものではあった。CDを放り込んで見たものの、コンピュータはLinuxを読み込もうとするらしく、エラーとなってCDからの立ち上げはできない。windowsからLinuxならば、簡単にLinuxを読み込んでくれるのだが、逆は難しいのだ。まず既存のブートローダーを消す必要がある。これはやはりLinuxでやらずばなるまい。

ネットで調べるとfdiskを使えとあった。しかし、そんなLinux commandはない。RedHatのCDを放り込んでLinuxのインストールをすると途中にfdiskが出てくる。これだなと思って、使ってみるが、新たなパーティションを切ることを要求されて、消しただけで終わることは出来ない。これで行き詰って、なんどもLinuxのインストールをしてみたりしているうちに、インストールではなくlinux rescueを選ぶとfdiskが単独で使えることがわかった。

全部のパーティションを消して、windowsのCDで立ち上がるとwindows のインストールが始まった。40GBのディスクのformatから始まるのだが、これがえらく時間がかかる。そのあげく、「失敗しました。ディスクが壊れているかも知れません」と言ってきた。Linuxで使えていたのだからそんなはずはない。もう一度やり直してみたが、同じことだった。

どこか不具合があるなら、パーティションに分けてみればわかるだろうと思い、CとDに分けてCにwindowsを入れることにしてみた。容量が小さくなればNTSFでなくFAT32でformatできるからこれを選んでみると上手くformat出来た。やれやれということでいよいよインストールが始まり、無事windowsになったようだった。

再起動するとwindowsの設定が始まる。ところが、この時点でキーボードもマウスも反応が無くなってしまう。これでは先に進みようがない。windowsは入ったがセットアップが出来ないのだ。何度か、立ち上げてみたが同じことだ。Cディスクの容量が足りないのかとパーティションを切りなおしてみたが同じことだった。

またネットを検索すると、windows2000でマウス・キーボードが動かないことはよくあることのようだった。USBはダメだからPS/2のキーボードを使えというのが解決法のようだが、こちらはPS/2しか使っていない。まったくの行き止まりだ。あきらめかけたのではあるが、USBの場合どこで止まるのかを見るつもりでUSBマウスをつないで見た。何とうまく動くではないか。やっては見るものだ。

ここまで二日かかったのだが、やっとwindowsを動かすところにこぎつけた。あとはソフトを入れたり、サービスパックを入れてwindowsのアップデートをやるだけだ。と、思ったら今度はネットワークが動かない。デバイスマネージャで見るとイサーネットのドライバーが入っていない。CDのどこにもこの機械に該当するドライバーがないのだ。hp2120はwindows2000より大分新しいからから無理も無いことではある。

またネットでイサーネットのハードの型式を調べて、検索するとhpのサイトにドライバーがあった。面倒だが他のコンピュータでファイルを取り、スティックメモリーで移してインストールしなければならない。それでもなんとかドライバーが入った。

これでブラウザーをたちあげればあとはネット経由でなんでもできる。と、おもったらブラウザーを立ち上げたとたんにエラーの連続。今のwebsiteは単純なhtmlだけではないから、windows2000付属のブラウザーでは対応できないのだ。

新しいブラウザーをまたスティックメモリーで移す作業をやったが、やはりwindows2000では動かない。調べたところIE6までがW2Kに対応していることがわかった。これを入れてやっとネットが使えることになった。windows2000のサービスパック4を取ってきてパッチを当てられた。

このあと愛用のフリーソフトをネット経由でいれたり、office2000などのインストールなどがあるが、ここまでくればあとは問題ないだろう。やれやれ。

「そうめん」が食えない [日常日記]

今年の夏も暑かった。こういった時に昼飯はそうめんが食べたい。関西出身者だからかもしれないが、夏場に冷たいそうめんを流し込む爽快さは、例えようもない。ところが、近頃そうめんを食わす店が関東では見つけられない。

ラーメン店はいやと言うほどあるし、蕎麦屋もある。うどんなどは、讃岐うどんまで進出してきているし、長崎ちゃんぽんの店もある。ところがそうめん店というのは何処にもない。

別に専門店である必要はない。食堂やファミレスにそうめんがメニューとしてあればいいのだが、ないのだ。

どうも、そうめんは外食産業の嫌われ者らしい。実はそうめんは、非常に特異な純正の麺類なのである。全くバリエーションがない。そばなら、天ぷらそばとかの付加価値をつけたものもあるし、麺自体も10割とか、手打ちとか、茶そばなどというバリエーションがある。うどんなら、キツネ、しっぽく、煮込み、かちん、天麩羅、たまご、にしん等々いろんなバリエーションがある。ラーメンに至っては店ごとにまったく中身が違う。

しかし、そうめんは、ただの「そうめん」でしかない。変な具はそうめんの味を壊すだけだ。天麩羅そうめんなどと言う発想はない。カレーそうめんなんか想像しただけで気持ちが悪い。

そばのように、手打ちで店独特の製法といったものはないし、その場で麺を作る新鮮さも必要がない。全て乾麺だから、むしろ、3年くらいじっくり寝かせたものが上物である。こうなってくるとお店としては他と差をつける売りがなくなる。これが外食産業に嫌われる理由だろう。

事実、良いそうめんを買ってきて、家で茹でるのがうまい。そうめんは、本質的に家庭料理なのだ。

他にもこういった家庭料理はあるだろうか? 昔の田舎食堂の定番メニュー「きつねうどん」「親子丼」「たまご丼」などは、家庭料理に近く、最近はレストランメニューから消えて行っているような気がする。

O君の訃報 [日常日記]

年賀状の返事が来ないと思っていたら、弟さんから昨年亡くなったという知らせが届いた。

O君は学生時代の友人である。僕は1年生のときに手品をやってみたいと思い奇術部にはいった。歯学部のO君とは奇術部で知り合った。彼が奇術部に入った動機は不純で、奇術部にいた文学部のIさんと言う女の子に惚れたからだ。知り合った早々、そのことを打ち明けられ手助けを求められた。

手助けをしようにも手立てがないから、実際はほったらかしだったが、進展はいちいち報告してくれた。デートを申し込んで成功したのだが、1回で終わりになった。ま、振られたということだ。あきらめずに次のチャンスを狙うなどと言っていたが、僕のサジェスチョンは「あきらめろ」だった。

二人とも特に熱心ではなかったので1年で奇術部を止めてしまい、あとの接点はなくなったのだが、不思議と交流は続いた。人なつっこく、頼まれたら嫌と言えない性格で、あるとき僕が下宿までの10km余りを電車に乗らず歩いて帰るから付き合えと言ったら付いてきてくれた。

灘高野球部の出身でピッチャーだったと威張っていたが、僕のほうは高校が甲子園の優勝高であると威張り返すとへこんでいた。実は僕自身は、野球などまったく全くダメだったので、何度もバッティングセンターへ行こうと誘われたが、一度も行ったことがない。子どもの頃は勉強もスポーツも万能だったようだ。当時(今でも?)灘高というのは阪神区域では一番難しい学校で、並大抵の子では入れない学校だった。しかし、大学ではその面影はなく、ひたすら好人物で、たしか成績も良くはなかった。

教養から学部に進学してキャンパスが別になった。学生大会が開かれ、中ノ島に行ったら、全闘委が殴りこんでくるという騒動の最中にO君と出くわした。どうしてる? と声をかけたら、ポケットから入れ歯を取り出して見せた。実習で入れ歯を作っているのだがどうしても一本歯が余ると言う事だった。彼の不器用さは半端ではない。

歯科医になるのは止めたほうがいいのではないかと思った。何年か後に大学の卒業名簿で彼が大学のポストについていて、所属が手術部になっていたのでほっとした。口腔麻酔の担当らしい。これなら入れ歯作りに悩むことも無いだろう。しかし、閉鎖的な医学部環境の中で歯学部出身は厳しいだろうなとも思った。僕も傍流で出世は厳しいと諦めていたのだが、彼の場合はさらにひどかった。 結局、ずっと助手のままで過ごしたことになる。

彼は60少し前に大学を辞めて関西に戻った。久しぶりに電話を受けて、結局彼は結婚もしていないことを知った。喉頭がんになり、手術でまだ少ししゃべり難そうだった。 数少ない医学に関係する論文を送って意見を求めて見たりして、今度関西に行った時には顔を合わせたいと思っていた。

訃報を聞いて、感慨をインターネットに載せたいと思った。妻子もおらず、おそらく、彼の死についても生についても知る人は少ないだろう。せめて彼の足跡を少しでも残してやりたいと言う気持ちだ。

おいしい薄味コーヒーの入れ方 [日常日記]

朝のコーヒー沸かしが僕の仕事になって1年余りになる。この間、おいしいコーヒーの入れ方をネットで調べたり、本を読んだりして調べてみたが、本当のところがどうもよくわからない。お湯を3回に分けていれるだとか、5回がよいだとか、「の」の字を描かないといけないだとか、果ては「コピ・ルワック」という呪文を唱えると言うのまであり、迷信めいたものが多すぎるのだ。

私を含めた普通の人には、豆の種類だってそう簡単に味が違うと感じられない。簡単にコーヒーメーカーで入れてみても、そう不味いわけでもないし、うまいときにはうまいし、不味いときには不味い。多分、飲むときの気分・体調が一番味に効くのだろう。午後の少し疲れたときには、砂糖をいれたエスプレッソがうまいし、朝は薄めのコーヒーを、砂糖やミルクなどいれずに大量に飲みたい。

ところが、調べても「うすいコーヒーの淹れかた」は、あまり出てこない。原理的には、コーヒー豆の分量を少なくすれば薄いコーヒーになるのだが、どうもこうすると、私にもわかるくらい不味い。実験として、カップを5個用意して、淹れながら次々とドリップファネルを移して行き、淹れ始めから淹れ終わりまでの段階でどのように味が変わるかを試してみた。

結果から言えば、最初の部分が圧倒的にうまい。3つ目以降は、香りなどまったく無く、ただ苦く渋い味がほのかにするだけだ。4つ目くらいになると色さえ極端に薄いし、味はとても飲めたものではない。コーヒーが出がらしになるのは、案外早いものなのだ。豆の分量を少なくした場合は、これを全部混ぜ合わせて飲んでいることになる。だから薄いコーヒーは濃く淹れてお湯で割るのが良いことになる。

三回だの五回だのとうるさいお湯の入れ方だが、これも実験してみた。一気にお湯をいれて、コーヒーの粉をファネルの中で泳がすような淹れ方をやってみたら、やはり少し不味かった。おそらく、部分的に出がらしの豆ができてしまうせいだろう。コーヒー専門店のミルはでかいものが設置されている。小さなミルで挽くと、軸が弱くてぶれるから、粉の粒度にばらつきがでる。他よりちいさな粉は早く出がらしになるので、部分的な出がらしを作ってしまうということだろう。自分でミルを挽くコーヒー通がいるが、多分あまり効果はないはずだ。大きなミルで挽いた粉を買ってきたほうが良い。粉を買うときは賞味期限に注意すると良い。コーヒー豆の賞味期限はなんと2年に設定されているのだ。賞味期限が2年近くあるものを選べば、自分で挽くより良いはずだ。

一気に淹れるのが悪いとすると、逆に考えると、少しずつ淹れるのがよい事になる。豆に水分を含ませ、吸いきれないものが下に落ちていくという状況にする。お湯が素通りせず、一度は豆の中に含まれ、それから出て行くようにするのは、こうしないといけない。10回以上に分けて、常に豆があぶくで膨れるようにすることにしている。膨れがへこむ度にお湯を追加する。

こういった淹れ方をするにはお湯は熱いほうが良い。98度などということが言われているが迷信だろう。どっちみち、ファネルに入れたら冷えるのだから1度以内の精度で温度を保てるはずがない。沸騰したお湯を使ったほうが抽出効率を上げられる。エスプレッソでは圧力を高めて温度を100度以上に上げる工夫をしているくらいだ。

コーヒー粉にお湯を注ぐ前に、粉をスプーンで押さえつけて置くというのは効果があるようだ。粉には非常に細かい粒子も含まれていて、これが流れていくとフィルターが目つまりして、流れが悪くなる。結果的にお湯の入れすぎで粉が泳ぎ、出がらしの不味さが出てくる。びっしりと押さえつけてあると、細かい粒子が粗い粉に邪魔されてフィルターに行かないので目つまりが少ないようだ。まあ、少しのことではある。押さえつけておいたほうが、お湯を入れた時の膨れが大きく、気分が良い。

修業の甲斐あって、ひとかどのコーヒー沸かしになった気がする。何かにつけて厳しい我が配偶者も、「まずい」とは言わないのだからたいしたものだ。

滅びゆくあこがれ------アマチュア無線 [日常日記]

昔は、アマチュア無線というものが、あった。無線機を作って互いに通信することを楽しむ遊びだ。囲碁でも、野球でも、アマチュアというのは、プロにあこがれ、プロに学んで育つのが常であり、アマチュアとは初心者と似たような意味合いを持つのが普通だ。だから、わざわざアマチュアであることを強調したりはしない。しかし、無線だけは、ちがう。アマチュアであることが重要なのだ。

プロの無線士は、船舶通信士であったり、通信兵であったり、確実な通信を行うことが業務であり、勝手に無線機を改造したり、不安定な電波を操って、長距離通信を試みたりはしない。無線機をいじりまわして、不可能とも思われていた通信に成功したりするのは、アマチュアだからこそ出来たのである。だから、無線の世界では、アマチュアとは挑戦者、開発者の意味合いを持った。無線の父マルコーニはアマチュアの元祖とされているし、バイブル的技術書は「Amateur handbook」と名づけられている。アマチュアであることが誇りなのだ。

日本でアマチュア無線が最も誇り高く栄えたのは1960年代である。1960年頃の田舎町に電話は普及していなかった。市役所や会社にはあっても、市外通話は電話局に申し込んで交換手につないでもらうというものであり、よほどの急用でなければ使われなかった。急用であっても、相手に電話がないのが普通だから使われるのは電報だった。「ハハキトク」などという電報を握り締めて駅に走るのが、代表的な急用である。遠くの友人とのやりとりは専ら手紙だったのだ。

そんな中で、悠々と遠くの友達と話ができるアマチュア無線は、多くの少年たちにとってあこがれだった。外国とだって通信できると言われていたが、まあ、それを望むほどの強力電波が出せないだろうとは判っていた。それでも、遠くの町と話ができるというのは、すごいことだったことに間違いはない。ソ連が人類最初の人工衛星を打ち上げ、短波帯で通信電波を送ってきたり、まさにアマチュア無線は、科学の最先端だった。

アマチュア無線の基となるラジオ製作という趣味もなかなか盛んだった。田舎町では、まだテレビの放送はなく、娯楽は専らラジオで、ラジオも買えば決して安いものではなかった。ところが、部品を集めて自分で作ると半額くらいでラジオを作ることができた。鉱石ラジオという非常に簡単なものもあって、少年たちにもとっつきやすかったし、少し勉強すれば新しい世界が開けた。古い「並四」と呼ばれるラジオの部品を使って、スーパーヘテロダイン回路にすると格段に性能が上がったので、アルバイトにもなった。実験的に回路を組み立てて、放送が聞こえるというのは、実に面白いのである。

この当時の理科系の少年は、多く模型飛行機から、ラジオを作りに移り、僕も、学校から帰ったらすぐに半田ごてのスイッチを入れる日々だった。それが、アマチュア無線を目指すことになった。アマチュア無線には免許がいるのだが、「電話級」という、やさしい資格が作られ、中学生でも合格する人が出てきて新聞にも出た。新聞に出るということは、逆に珍しいということでもある。そう簡単ではなかった。僕が受けた試験で、出来なかった問題を覚えている。 「変成器の良否を回路試験機を用いて調べる方法を述べよ」というものだ。テスターとトランスの事なのだが、用語がわからなかった。なんだ、ということで今でも覚えているのだ。択一ではなく記述式の問題だ。

免許が取れても、開局までには、かなりの時間がかかる。受信機も送信機もすべて手作りでやるしかない。完全に回路を理解して設計したわけではないのだが、受信機は高周波1段、中間周波2段のスーパーへテロダイン、送信機も高々10Wだから、UY807という真空管を使った回路と、だいたい相場が決まっており、回路図もあちこちの雑誌に掲載されていた。山から竹を切りだしてきてアンテナを張る。アンテナを見上げて、これが小さな町から世界への出口だと感じた。

やっと作り上げて、電波を出したときの感激は忘れられない。本当に遠くの町と話が出来たのだ。僕はもう、田舎町に孤立した存在ではない。外国の電波も入ってきたが、いくら呼んでも応答は無かった。相手はkWの大電力で日本まで飛ばしているのだから、こちらの微弱な電波では無理も無いのだ。毎日、いろいろと改良を試みるのがほとんどで、実際に通信を行うのはそれほど多くも無かったように思う。そうこうしているうちに高校生になり、学業が忙しくなってしまった。病気で寝込んだこともあって、僕のアマチュア無線は終わった。

20年くらいもしてから、ふと思い出してまた電波を出すことにした。電波の理屈もわかるようになっていたので、電力を上げられるように、上級の試験を受けたのだが、択一式の簡単な問題になっていた。世の中は変わっており、メーカー製の送受信機が簡単に買える様になっていた。無線機も高度になっており、とても全部自作する勇気がでる代物ではなくなっていた。100WのSSBだから、性能はすごい。英語もできるようになっていたので、アメリカの局を呼んでみたら、普通に返事が帰ってきたのには驚いた。電信ならヨーロッパでも南米でもアフリカでも問題はない。いとも簡単で拍子抜けがするくらいだった。

しかし、アマチュア無線そのものが様変わりしていた。無線機を自作する文化は無くなって、小さな手持ちの無線機が売られており、今で言う携帯電話のように使われるのが主流になって、試験もだれでも受かるようなものになってしまっていた。これはもうアマチュア無線ではないと感じた。無線連盟とメーカーが結託して通話料のいらない携帯電話として普及させてしまったのだ。無線の世界は、アマチュアではなく、プロが支配するようになっていた。

それでも、アマチュア無線を再開したのは、電波を使ってネットワークにつなぐことに興味を持ったからだ。当時、bitnetとかvaxnetはあったのだが、インターネットはまだ普及しておらず、家から、サーバーにつなげることが出来なかったのだ。電波を使ってパケットを送ることはこころまれており、リピーターなども設置されるようになっていた。新しい形のアマチュア無線が生まれるように思えたし、こんな領域でアマチュア無線が生きてくると思うと痛快だった。

ところが、インターネットの普及は思いの外す速いものだった。電話回線を使うことで始まったが、あっというまに高速回線が普及してしまった。パケット通信の意味合いがなくなってしまったのだ。携帯電話としての無線も、ホンモノの携帯電話が普及すると、たちまち廃れていった。今でも、無線をやっている人がいるから、アマチュア無線家は絶滅はしておらず、絶滅危惧種というのが正しいが、最早あの、電波に対する憧れはもどらない。僕にとってはすでに過去に栄えた絶滅種となっている。歴史のなかでは一瞬であったが、人類は電波を知り、アマチュアたちが、情熱をもってそれを愛した時期があった。それは確かな事実だ。



重ね着の技 [日常日記]

寒い季節になった。肌シャツ、シャツの上にセーターを着込む。こんな時、3枚重ねて脱ぎ着するのがよろしい。手早く着られるから、朝も寒さを軽減できる。配偶者からは、ものぐさ過ぎると批判を浴びているが、気にすることはない。一枚づつ着なければならない理由などどこにもないのだ。

袖のボタンとか、胸のボタンの2つくらいをはずしておいて、一気に脱ぐ。着るときはこの逆で、全部着たあとからボタンを留めればよい。これで普段はうまく行くのだが、ローカル温泉やスーパー銭湯に行った場合は、トラブルもある。湯上りで肌が湿っているから、すべりが悪い。無理に引き下げようとするから、3枚が巻き込んでどうにも動かなくなる時がある。最悪だったのは、前後を逆に着てしまった時だ。途中で引っかかって、脱ぐことも出来ず、往生した。仕方ないので、後ろ向きのままなんとか着て、外に出で、手伝ってもらってもう一度着替えた。

さんざ笑われてしまったが、これは準備が悪かったからだ。何事にも十分な準備をしておけば、憂いはない。重ね脱ぎ着をやっている人のために要点を書いておこう。「そんなアホなことをする人は他にいない」などと言う配偶者の言には取り合わないことにする。合理的な脱ぎ着の仕方は、多くの人がやっていて当然なのである。

服に頭を突っ込む前に、腕を袖に十分通して置く、これが大切だ。これで、頭が通らないことはない。見渡すことが出来れば、うろたえることはない。巻き込んで引っかかったら、上から順に、まずセーターを下ろす。シャツを下ろせば、これで大分巻き込みは解消されているから、肌シャツを巻き込みを解きながら下ろせばよろしい。最初に肌シャツを下ろそうとするのが良くないのだ。

服の着方に固執して、工夫を述べ立てる理由は、何事にも工夫が必要だと言うことを言いたいからだ。つまらないことでも工夫して考えてみるべきだ。

もう一つ例を出そう。年をとると、足腰が弱くなり、畳部屋が苦手になる。一度座ったら立ち上がるのが大変だからだ。柱とか壁にすがって立ち上がる苦労がみっともないからだ。しかし、これも工夫で切り抜けられる。力任せに立ち上がる、若いときのやり方から、何も工夫しなければこういうことになる。

膝を立てて、前のめりになる。手をついてもよろしい。頭を十分膝より前に出せば、膝を支点とした梃子の原理で、自然に腰が浮く。腰が浮いてしまえば立ち上がるのは膝を伸ばせば良いだけだ。若いときには、膝の力で強引に腰を持ちあげていたのだが、年をとるとそうは行かない、勢い、壁や柱にすがることになり勝ちなのだが、それは、考えなしにやるからだ。考えずにあきらめることをくれぐれも戒めたい。

実は、これは加齢対策だけではない。加齢などという仕方のない事項でも工夫の余地があるのだが、若い人も考えずに諦めることが実に多い。本当に仕事が出来ないのか。本当に仕方がないことなのか。悩むだけでは解決しない、諦める前にとことん考えつくしてみようではないか。

男なのにどうしておじいちゃんなの? [日常日記]

4歳になると、それなりに理屈を考えるらしい。男だからおじいちゃんであるわけだから質問の意味が理解できない。彼女の説明によれば、男の子は、祐介クンも、卓也クンもみんなクンだ。だから女の子であるおばあチャンはわかるが、おじいチャンは男だからおかしいというのだ。

答えに窮して、「赤ちゃんは、男でも女でも赤チャンだろ」とごまかしておいた。それで完全に納得した様子ではなかった。言葉は、意味だけではなく語感も大切だということがわかる。それが、日本語の多様性だ。日本語は、話し言葉と書き言葉がいまでも違うし、同じことを表すにも、少しずつニュアンスが異なる表現がある。

方言もその一つで、必ずしも標準語に翻訳できない。よく関西弁はやわらかいといわれるが、それは、音ではなく、敬語の使い方にあるのだと思う。関東と関西では敬語の使い方が異なるのだ。

関西では、「赤チャン泣いてはる」などとよく言う。直訳すれば「赤チャン泣いておられる」だが、関東でそんなことは言わない。ぞんざいな高校生が「先生きゃはった」と言うのは、決して「来られた」ではなく、「先生来たぜ」と同じ意味だ。関西の敬語は軽いのである。

では、重い敬語はどのように表現するか? それはない。関西では、天皇も赤チャンも同じである。古来、関西商人は、腰が低く、お客にへりくだる。だが、それは、普通のお客に対しても、大金持ちの上客に対しても同じようにへりくだると言う点で、実は反骨精神を表しているのである。上客にだけ追従する関東商人とは違っていた。

僕は関東に来てもう随分経つ。それでも、軽い敬語の魅力が棄てられずに時々関西言葉がでてしまう。近頃は、関東でも関西弁が理解されるようになって来ているが、どうもそれは上方漫才のためらしい。これは気をつけなければならない。謝るときに「えろう、すんまへん」などと言ってしまうと、逆に、ぶち切れてくる人もある。ふざけていると思われるのだ。

言葉は、相手に気持ちが伝わって始めて意味がある。4歳児の疑問から、妙なことを考えてしまった。

15kgダイエットの秘訣 [日常日記]

体重を量ってみたら69kgだった。身長172cmだからBMIは23.5、まあ普通体型ということになる。実はかつて84kgあって、肥満でダイエットをしたのだ。どうやって、15kgの減量をしたのかを書いておこう。別に苦労したわけではない。

それまでにも肥満を指摘されて、運動したりを試みたのだが、減量することはできなかった。もちろんこれは酸素吸入が必要になる前のことだ。運動で消費するカロリーはたか知れているし、腹が減るから当然多く食べる。よほど大きく運動して、筋肉が増えでもすれば基礎代謝量が増えるだろうが、そこまで運動人間になれる人は、もともと肥満になったりしないものだ。にわか仕込みの運動は、減量にならない。

僕がやったのは、いわゆる「計るだけダイエット」だ。ネットにも「計るだけダイエット」のことが色々書いてあるが、計ることで何が太る原因なのかを考えるなどというのは間違っていると思う。努力するのは、長続きしないし、必ず反動がある。単純に「計るだけ」に徹するのが正しい。そのかわり、計ることにはこだわる。

0.1kgが計れる精密体重計は必須だ。朝起きて、トイレに行って、全部出した所で、最低体重を量る。夜は、寝る前に同じように計って、壁に貼ったグラフ用紙に印をつける。朝は白丸、夜は黒丸だ。もちろん、パンツなど穿いていてはいけない。1gでも少なくするこだわりが大切なのだ。朝起きて計ると、確実に前の晩よりもかなり体重が減っている。それがまた夜には増えている。

それ以上の事は考えないで、普通に過ごす。グラフが上下するのを眺めていればよい。しかし、0.1kgの体重変化も見逃さないこだわりは絶対必要だ。必ず、素っ裸になって計る。こだわりの体重計測で、自然に惰性食いを排除するというのが、計るだけダイエットの原理だと考えている。これを確実にするためには、むしろ食べたいときには食べたほうが良い。我慢すれば反動が出るだけだ。おそらく、知らず知らずのうちに、「本当にお腹がすいているのだろうか」と自問することになるのではないかと思う。体が要求していないのに惰性で食べ物を口にするのが、肥満の一番の原因だ。

毎日0.8kgほども上下するのだが、1ヶ月もした頃、平均的な体重が下がりだしたかなと意識した。こう感じると続けやすい。上下しながら少しづつ体重が下がり、夜の体重が、最初の頃の朝の体重になった。そして1年経つと、74kgになって、10kgのダイエットが出来た。グラフ用紙を継ぎ足して行って一年で、壁がいっぱいになったので、この計るだけダイエットは止めてしまった。74kgで、あまり変化しなくなったように感じたこともある。しかし、1年続けると習慣が身につくようで、その後も75kg以下を維持していたと思う。BMI=25、ぎりぎりで肥満を抜け出せるレベルだ。

惰性食いを排除するだけだから、この方法には限界がある。肥満から抜け出したいという人には、かなり有効だと思うが、そんなに太っていない人が、もっと痩せて格好よくしたいなどという場合にはあまり有効ではないだろう。

さて、僕はそれからさらに5kgのダイエットをしたわけだが、こちらは結果的にそうなったというようなものだ。「不健康ダイエット」だから、お勧めではない。慢性骨髄性白血病(CML)になり、タシグナと言うお薬を飲みだした。これが、なかなか厄介で、12時間毎に飲み、しかも空腹時に飲まなくてはいけない。朝10時と夜10時に飲むことにしたのだが、そうするとその前2時間、後1時間は食べることが出来ない。

朝8時までに朝食をすませ、11時まで何も食べられない。夜も、8時までに夕食をすませ、11時まで何も食べられない。つまり、間食が出来ないのだ。とりわけ夜の間食制限は、効果が大きいらしい。睡眠中の空腹感が脂肪を燃やすからだ。相手が白血病とあっては、こちらも命がけだからやらないわけには行かなかった。まあ、だれでも死ぬ気で間食をやめれば5kgのダイエットは出来るということではある。

こういうことで、結局、合計15kgのダイエットをしたことになる。

サンタクロースの盛衰 [日常日記]

孫のお姉ちゃんは4年生。「あきちゃんが、もうサンタさんにもらうもの決めたって言うから、え、もうお手紙書いちゃったのって言ったの」「そしたら、お手紙ってなに? って言うんだよ。」「お手紙書かずに、どうやってプレゼント貰えるのよ。」

4年生になると、少しは物事を合理的に考えるようになる。サンタさんは、いつも遠くから見ているなどと言うことは信じない。何がほしいのかを伝えるためには手紙を書くしかないと言うわけだ。クリスマスツリーの横に封筒が置いてある。一所懸命、丁寧に書いたようだ。目立つようにと、お花や、ハートのシールが貼ってある。

もう少し大きな、高学年の子どもたちどうしの議論を聞いていると面白い。「いるはずない」と自信を持って言う子には、あまり反論しない。お父さんが置いていく家もあるけど、中にはサンタさんが来る家もあるのではないかと言うのが平均的な高学年の理解らしい。全くいないのなら、ここまで話題になるはずがないと考えている。ふっと気配を感じて外を見たら、ベランダにトナカイの糞が落ちていたなどと、もっともらしいことを言い出す子がいると、サンタクロース否定論は影を弱める。

この子の親、つまりうちの子供たちは、中学生になるまでサンタクロースを信じていた。同じような世代が集まっている集合住宅だったので、僕も近所の子によく「本当にサンタクロースはいるの?」と聞かれた。半信半疑の子どもたちは、よその小父さんに聞いてみるらしい。もちろん「いるともさ」と答えた。結果的に大人たちが、みんな口裏を合わせたことになる。80年代には、しっかりとサンタクロースが実在していた。

しかし、僕らが子供の頃、50年代には、サンタクロースは来なかった。そんなものを信じないのが「科学的」だと思われていたのである。どの大人も、サンタクロースを否定した。僕も、サンタクロースにプレゼントを貰った覚えはない。幼稚園や地域の子供会がクリスマス会をやって、サンタクロースが現れてプレゼントをくれるというのは一般的だったが、クリスマスは、家庭行事ではなかったのである。あちこちのバーやキャバレーがクリスマスパーティーをやって、酒飲みを集めていた。家庭行事でなかったからこそ出来たことだ。

70年頃にはクリスマスケーキが流行った。大きなケーキを食べる機会が他に無かったからかもしれない。駅前の商店街にはケーキが積み上げてあり、飲み会帰りのお父さんが、罪滅ぼしに買って買えるパターンが多かったようだ。サンタクロースの人口が一番多かったのはこの頃ではないだろうか。歳末大売出しの福引会場には必ずサンタクロースがいたし、この時期の宣伝にはサンタクロースは欠かせなかった。今は、駅前商店街自体が衰退している。いつでもケーキを食べられるようになって、クリスマスケーキは少なくなった。

サンタクロースは、夢と余裕の産物だろう。格差が拡大する世の中で、子どもたちにプレゼントをくれるサンタクロースが増えているのか減っているのか気になるところだ。中にはあるだろう、小さな子の家にサンタクロースが来ないのは、考えても痛ましい。

ブログランキングを1位にしてみる [日常日記]

「にほんブログ村」のブログランキングに参加してみている。間質性肺炎の人たちとの情報交換にいいだろうと思って「肺炎」のカテゴリーを選んだ。ついでに「海外旅行」とか「60代」にも登録しておいた。順位なんかどうでもいいのだが、いざ参加してみると気にはなるものだ。やはり書いたものへの評価ということになるからだ。

バナーを貼り付けて、読んだ人にプチっと押してもらう。多くの人が、記事を読んでボタンを押せば順位が上がる仕掛けだ。記事の中で「押してください」などと毎回書いている人もいるが、どうもさもしい気がして気乗りがしない。横の枠外にボタンを設置しておくことにした。

「肺炎」カテゴリーは、小さな部門だから、時々更新すれば、10位くらいにはなれる。上がったり下がったりするから面白い。しかし、どの様なときに上がり、どの様なときに下がるのかが釈然としない。記事を書いて自分では上がるはずだと思っても、逆に下がったりする。

他のブログを見ても、内容と順位は一致しない。順位は低くても興味深いブログがある。このランキングにはどうも納得しがたい。他の大きなカテゴリーは、もっとひどく、1位/1000なんてのを見ても、全く無内容な記事だったりするから呆れてしまう。

考えて見ると、それは当たり前で、ボタンを押すことと記事の内容とは、何の関係もない。ボタンを押すとブログ村のページが開くのだが、これが実に煩わしい。記事を読む度にボタンを押してブログ村ページに飛ぶなどと言うことを普通の読者が繰り返すはずがない。

思うに、ボタンは自分で押すか、親しい友人に毎回押すことを押し付けるしかない。良く更新する人は、ボタンを自分で押してランキングを確認するからそれだけ分順位が上がることはわかる。しかし、何回自分で押しても、一回以上にカウントされない仕掛けはされているから限度がある。ランキングの上のほうと僕のブログとの間には相当なポイントの開きがある。一体、この違いは何によるものだろうか?

こんなことから、ブログのアクセスを研究してみることにした。第一歩として、このブログをランキング1位にしてみようと思う。先週は11位だったこのブログを今週末までに1位にできるかどうか。現在の順位は左上の「肺炎」ボタンを押してもらうと現れる。この顛末は「追記」として書くつもりだ。

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高校入試への疑問 [日常日記]

我が家の近くには、大手の塾が軒を並べている。送迎バスや自家用車で夕方はかなりにぎあう。高校入試対策らしい。毎年、3月には「成果」を競う折込広告が多い。

僕はどうもこの高校入試をめぐる騒ぎに違和感を覚えて仕方がない。大学入試はわかる。それぞれの大学によって学ぶことが異なり、適性もあるだろうし、人数の制限があるのも致し方ない。しかし、高校では皆同じことを学ぶのである。入学する生徒を選抜する必要がどこにあるのだろうか。難しい高校でも易しい高校でも、学習指導要領で教えることは決められており、決して高校レベルを超えた授業内容になることはない。

では、一体何のための入学試験騒ぎなのだろうか。なるほど、難しい高校には、いい大学に進学する生徒が多い。しかし、難しい高校に入れば、いい大学に入れてもらえるわけではない。他の子がどこに進学しようが、当人には関係のないことだ。

難しい高校と易しい高校では進度が違うということだ。進学校では2年生までで、3年分の過程を終える。で、あとの1年は、新しい事を学ばず、試験の練習で足踏みして過ごすのである。どう考えてもこんな教育が良いとは思えない。実はうちの子供たちもそういった高校に入れてしまった。じっくり教えず、先へ飛ばすばかりで、わざわざ数学嫌いを作るようなものだ。おかしな教育法と言うしかない。

当然ながら、高校入試などということに熱狂するのは日本独特の現象だ。少なくともアメリカでは高校入試などと言うことはない。義務教育ではないが、希望すればだれでも地元の高校に進学できるようになっている。それで何も問題はないのだ。立派な科学者も多数輩出している。

実は日本でも昔は高校入試などたいした問題でなかった。新しい憲法ができて、民主主義が国の基本となったとき、学制も変わって、中学までが義務教育となり、新制の高等学校も出来た。高校は3原則に基づいて作られた。それは、男女共学、総合制、小学区制というものだった。アメリカの制度をそのまま受け入れたものだとも言える。

それまでの教育は複線式で、小学校以上は、専門学校や中学校、高等小学校、陸軍幼年学校といった具合に、格差を前提として職業別、階層別に分かれていた。それを高校まで統一して、だれもが多彩な進路を選べるようにしたのだ。小学区制で行く高校は決められており、序列などはなかった。

なぜ高校3原則が崩れていったのかよくわからない。有力者と同級生といったつながりが重要なコネ社会が続いたからかもしれない。あるいは、地元での恰好よさを求めて、差別化を望む国民性だったかも知れない。競争が学力の向上を生むといった信仰のせいかもしれない。ともかく、高校3原則は崩れて行き。現在の入試制度になっている。

僕が育ったのは京都府の田舎で、一番長く高校3原則を守ったところだ。当時の京都府知事は蜷川虎三という反骨魂の塊のような人だった。なにしろ長い就任期間の間、一度も東京には陳情したことがないというくらいだ。「15の春は泣かせない」と、徹底的に高校入試の強化に反対した。政府の言うことは全く聞かない知事だ。

町には2つの高校があったし、近隣の町までもそう遠くはなかったのだが、進学先はきっちりと住所で定められていた。いちおう入学試験というのはあったのだが、競争はなく、よほど勉強をサボっていなければ、合格した。中学生の時は、無線や模型工作でのびのびとすごせた。僕や友達なども合格発表など見に行ってもいない。高校には入れるのがあたりまえだったからだ。

当時、大学進学率は30%以下だったと思う。高校での友人の多くは大学に行かずに就職した。こうした多彩な友人を得られた事も小学区制の高校の良いところだと思う。他県の進学校から来た大学の仲間達はみな交友の範囲が狭い。

競争がないと学力がつかないというのは完全な誤りだということを身を持って体験している。競争ではなく、学問への興味で勉強した。だれでも入れる高校ではあったが、大学進学の成績は決して悪くなかった。東大5人、京大5人、阪大3人というのがその年の合格者数だ。今や地方小都市の高校では、いくら厳しい選別で高校入試を加熱させていても、これだけの進学成績を挙げているところはないだろう。高校の序列化で競争をあおることには何の意味も無いことがわかる。

15歳の段階で、子どもを無意味で奇妙な競争に駆り立てる高校入試というのは、実にバカバカしいものだ。

憂鬱なパソコン更新 [日常日記]

パソコンの更新というのが嫌で仕方がない。どんどん性能が上がっているというのだが、僕にはその必要が感じられない。文章を書く上で、10年前のwordが最新のwordに比べて何か不便なことがあるだろうか。僕は今でもword2000を使って何ひとつ不満はない。

ところが困ったことには、古いwordでは最近のファイルが読めない。仕方なく新しいwordを入れる。全く僕の都合ではないのだ。Excelも同様、無理やり新しいものに変えさせられる。古いほうがよほどわかりやすい。PowerPintにいたっては、新しいものは使い物にならない。マクロの記録の機能が削減されてしまっているからだ。

ソフトウエアはまだ良い。OSの更新は多大な労力が必要で、何一つ良いことがない。新しいOSに慣れるまで散々苦労させられる。なるべく更新せずに古いOSで頑張ることにしている。近年までwindows2000を使っていた。古いbrowserに対応しないweb siteが増えて、アクセスするたびにエラーが続出して根を上げた。

その後も今日までXPで頑張ってきたのだが、VPNホストがセキュア接続でないと受け付けなくなり、仕方なくwin7に移行することにした。世間で言っているwin10への自動移行よりも一周期以上おくれていて、XPから自動移行するわけではない。手動移行だからXPファイルのバックアップにも時間がかかるし、トラブルも一杯出てくる。外付けの機器のドライバーが無く、CDがどこにいったかわからないということもしばしば起こる。一番困るのがネットワークにつながらなくなることだ。案の定、無線LAN子機のドライバーが動かない。

他のパソコンを使ってネットから探しだして、USBメモリーで入れてやらなくてはいけない。全く持って面倒なことだ。次に起こることはメモリーの不足だ。OSが進化するたびに必要なメモリーが増えて、メモリー不足の結果、動きが遅くなる。新しいOSが速いというのはウソだ。

待ち時間が長いことも嫌なことだ。ファイルのコピーにも何時間もかかる。何度もシャットダウンを繰り返して、そのたびにパスワードを入れなくてはならないから、放っておくわけにもいかない。昨日一日かかって、やっとネットにつながるようになった。さてこれから不案内な新しいOSの下で全てのソフトを入れなおさなければならないし、あちこちに退避させたファイルを戻す必要もある。その一つ一つにまたトラブルがある。全くもって面倒だ。

新しいコンピュータを買ったけど [日常日記]

「決算セール33%OFF」に釣られて、新しいPCを注文してしまった。thinkpadX260。メーカー直販で来週くらいに届くはずだ。新しいものへの期待も確かにあるのだが、心待ちにする気持ちが薄い。果たして良かったのかどうかまだ不安だ。毎日使うものだから、これで失敗すると尾を引き、実に気分が悪いことになる。

今使っているのは、thinkpadX32。2005年のモデルだから11年前のものだ。windowsXPで動いている。僕はこれに何の不満もない。いろいろカスタマイズして使いやすくなっているし、2GB積んだらメモリー空間はXPに対して相当な余裕だからサクサク動く。10年前のPCは作りがしっかりしており、キーボードを叩いた時の当たりが良い。

実のところこの10年間コンピュータは進歩していない。それまではCPUもどんどん早くなっていたのだが、1GHzを越えてからはたいした変化はない。無線LAN,USB、VGAといったI/O構成も10年前に導入されたものだ。にもかかわらず、「やっぱり新しいPCは早くて快適だなあ」という感想をよく聞く。どうしてだろうか。

それは、新しいアプリケーションがどんどん重くなっているからだ。wordもExcelも巨大なプログラムになってしまっている。とんでもなく大きなメモリー空間を使うから、それにあわせてOSも大きくならなくてはいけない。古いPCでは動きが鈍すぎることになる。

しかし、wordをそこまで肥大化させる必要がどこにあるのか?10年前のwordにはなかった新しいワープロ機能を使っている人がどこかにいるだろうか。軽いword2000をXPで使えば何の問題もない。ワープロソフトは10年前にすでに完成されている。ところが、新しいwordは「改良」のためにファイル形式を変えてあり、古いwordで読めなくしてある。必要のない「改良」なのだから、まさに肥大化したwordを押し付けるための陰謀でしかない。実際、新しいwordで書く人が増えてきて、読めなくて困ることが多くなった。

ExcelもPowerpointも実は退化している。僕はPowerPointを図面書きに使っているのだが、新しいPowerPointでは使い物にならない。VisualBasicの機能を排除してしまっているからだ。これでは、遠近法で絵を描くにも困る。Excelにしたって、普通のファイルではVBが使えず、別のファイルにしなくてはならない。メニューが事務用に特化してしまっているから、計算に使おうとすると使いづらいことこの上ない。

このままX32を使い続けようかという気になっていたのだが、困ったことが起きてしまった。XPでVPN接続しようとするとはじかれてしまうようになったのだ。セキュリティの問題で、XPはTLS1.2に対応していない。windowsが10になり、安定しているという評判なので、ここらが潮時かと考え出した。X32の重さ、デカさが時代遅れかとも感じた。昔は重いPCをカバンにいれてどこへでも持ち歩いていたのだが、その体力もなくなった。

さて、どのコンピュータがいいのだろうかと物色し出したのだが、これがなかなか難しい。僕の希望としては、小さく軽く、コンピュータとしてしっかり使えるものなのだが、最近のノートは、多分小さいものがタブレット化したせいで、大型化している。随分と薄くなっているのだが、画面が広くなって、重量としてはX32と変わらないものが多い。しっかりしたキーボード、トラックポイントを備えたものとなると、皆、14インチだ。

もう少しいいものが発売されないだろうかと、待ってみたが、どうも12インチの使えるコンピュータが出てきそうな気配がない。そこに「決算セール」が目に付いたのだから、衝動に負けたのかもしれない。結局X32より1センチ大きいし重量は変わらない。VGA端子が付いていないからプレゼンには変換を持ち歩かなければならない。IEEE1394接続の機器とはつながらなくなってしまう。APIが変わってしまうから僕が作ったプログラムは多分作り直しだ。Excel2000とか、僕が使っているソフトのいくつかも動かなくなるかもしれない。デスクトップの構成やファイルツリーの構造がちがうから、しばらく戸惑わなくてはならない。

いったい何のために新しいPCを買うのだろうか、自問してしまう。何の不満もないのにXPを捨てなくてはならないことになったのが不本意だが、世の中に逆らうにも限度がある。OSを変える事は、いつかはやらなくてはならないのだから、今、それを済ましてしまおうということだと納得しよう。厄払いの行事だ。これで10年持つのなら、今度は多分僕がくたばるまで、使えると期待しよう。
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