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亡くなった伯母の人生かえりみて [日常日記]

伯母が元旦の朝に亡くなった。93歳だった。僕は胸水の増加による呼吸困難から退院直後だったので、葬儀にも行けなかった。母と伯母が生まれたのは、京都の町のど真ん中である。地下鉄まで30秒、今ではビル街になっており、150年以上前の民家が1つだけ、ぽつんと取り残された状態だ。伯母が亡くなった今、この家も近々とり壊されることになるだろう。母は結婚して家を出たが、伯母は生まれてから93年間、頑としてここを動くことはなかった。独身で通した「おひとりさま」の草分けである。

伯母が生まれたのは1924年、関東大震災の翌年だし、ラジオ放送が始まった年でもある。いわゆる大正デモクラシーの平和な時期ではあったが、このあと急速に戦争へと突き進んでいったから、大変な時代を生きたことになる。しかし、伯母自身が波乱万丈に生きたわけではない。祖祖父は亀岡藩の士族だったが、古くからあった材木問屋の娘と結婚してここに住みついたのだ。祖父に大きな稼ぎがあったわけではないのだが、資産があったから裕福な暮らしをしていた。当時、女学校の高等科まで進み19歳まで教育を受ける女性は少なかった。

学校を出た時には、まさに戦時中だった。女性も軍事生産などに動員されたのだが、多分、親が手をまわして、母は証券取引所、伯母は帝国銀行に勤務することになった。当時としては安全で楽な仕事ではある。その後、母は結婚したのだが伯母は仕事を続けた。もともと頭の回転が速く、復興期の銀行業務に適していたかも知れない。当時はお見合いが主流だったから結婚のチャンスがなかったわけではない。母に言わせれば「選り好みばかりしている」と言う事だったらしい。

戦争で同年代の男性の多くが戦死した。だから伯母の年代で独身をとおした人はかなりいる。良家の子女、高学歴などとプライドが高かったのも事実だろう。しかし、仕事が面白くなってしまったこともあると思う。男社会で大きな出世はなかったが、業務に精通して、活躍の場は多かった。母などは専業主婦となって冬場は着物を着ていたりしたが、伯母はいつも洋装だった。

時々、我が家にもやってくることがあったが、快活で都会の雰囲気に満ちていた。新しいものは何でも伯母を通して我が家に伝えられた。高度経済成長以前で、まだ一般的ではなかったはずだが、スキーに行ったり、ゴルフをしたり、活動的で、古典的な良妻賢母に終始した母にとっては、感心することばかりだったようだ。

結局、定年まで40年に渡って銀行に勤めた。年金もあり、家もあったから、経済的な苦労はなかっただろう。定年後は、海外旅行に行ったり、ゴルフに行ったりしていたが、どうも様子がおかしくなってきた。60代の半ばだったと思うが若年認知症が始まってしまった。グループホームに入り、亡くなるまで30年の歳月を認知症とともに夢の世界で過ごしたことになる。お見舞いに行っても、僕がわからなくなってしまっていた。

時代に翻弄され、結婚もせず、出世もせずだったが、生きる苦労はなく、子育てや家庭生活の悩みもなかった。あるいは寂しさを感じていたかも知れないが、何事もない平安な伯母の人生はそれなりに幸せなものだったのかもしれない。





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真夜中にパソコン壊した奴がいる [日常日記]

朝起きて見たらパソコンが壊されていた。何度やっても、セーフモードにしても、全く立ち上がらない。ひどい壊れ方だ。フリーズした画面の時計が止まっているから犯行時刻は午前3時35分、真夜中である。もちろん我が家だって戸締りはしている。しかし、マスターキーを持っていてどこにでも上がり込んでくる奴は防ぎようがない。インターネットの回線を伝わってくるのだ。どんなセキュリティーを装備してもマイクロソフトは全て潜り抜ける。勝手にウインドウズをアップデートする。そして、挙句の果てに新しいOSのインストールに失敗したらしい。「windowsのインストールに失敗しました。インストールをやり直してください。」と言うのが残されたメッセージだ。

別のPCを使って検索して見ると、アップデートに失敗した時の対処方法はいろいろある。マイクロソフトも対策ソフトを配布したりしている。しかし、それはコンピュータが動いていることを前提としたものだ。コンピュータが立ち上がらないのだから対応のしようがない。そもそもこのコンピュータはwindows7が積んであった。それを勝手にwindows10にアップグレードしたのは僕ではなくマイクロソフトなのだ。当然windows10のメディアは持っていない。インストールし直せと言ったって、無理だ。まあ、リカバリーディスクを作っておくべきだったと言う事だろうが、このPCにはDVD-Rしかついていなかったのだ。

windos7を入れ直すしかない。勝手にアップグレードして、それを壊して、またwindows7を入れ直させるなんてバカな話だ。手間暇かけて入れ直した。ドキュメントファイルなどは全部消えてしまうことになる。復旧作業も大変だ。windows7のCDを持ち出してインストールは出来たが、それだけでは使えない。ネットワークにつながねばならないのだが無線LANアダプターのドライバーがない。ネットにつながっていないのだからダウンロードできない。別のパソコンでダウンロードしてUSBで入れなければならなかった。

ネットワークにつながってしまえば、ソフトもダウンロードできるし、一応コンピュータは使えるようになる。ところがである。windows7についているインターネットエクスプローラはIE8で古い。なんとマイクロソフト自体が、「このブラウザは受け付けません」とアクセスを拒否するのだ。さすがにIEのアップグレードというページにはつながったのでIE10にアップグレードしようと思ったのだが、「このコンピュータにはインストールできません」と出てくる。IE9でも同じことだった。マイクロソフトは最新版のIE11しかインストールさせないようにしているらしい。IE11を入れようとしたら、まずSP1をインストールしろと言ってきた。メッセージのリンクにあるSP1のページに飛ぼうとしたら、また「このブラウザは受け付けません」である。これでは鶏と卵で先に進みようがない。

調べたところ、windows updateが勝手にSP1を入れるまで待つしかないことがわかった。updateを入れては再起動を繰り返し、7回目くらいでやっとSP1が入った。これでIE11も入れられるから先は見えてきたがまだVPNとかFTPのソフトも入れなければならない。windows7のまま使っておれば何の手間もかからなかったのにと思うとホント腹が立つ。

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孫たちが大きくなるのは早いもの [日常日記]

僕には3人の孫がいる。一人はサンフランシスコ在住だから、なかなか会うチャンスがないが、あとの二人は近くの町にいるから、つぶさに様子を知ることができる。

ついこの間生まれたばかりだと思っていたら一番上の子は、早くも中学生になった。入学試験に通って、我が家の近くにある学校に通い始めたから、立ち寄ってくれる機会が多くなると期待している。この子は「いい子」であることに熱心なことが特性だ。だからなんでも一生懸命やる。運動、音楽、勉強、遊び、お手伝い。小学校の時は結果的に何でもできるスーパーガールだった。しかし中学校ではそうもいくまい。勝手が違うだろうと思ったが、相変わらず学校行事には積極的で、新しい友達も出来て毎日が楽しくて仕方がないといった様子だ。これはいいことだろう。

妹の方は小学校2年生だ。本当についこのあいだまで赤ちゃんだった気がする。面白いものでこの子特性は言葉達者なことだ。一歳でまだオムツをしている時からペラペラとしゃべっていた。今も書くことが好きで、作文で入選したりする。お姉ちゃんのまねをして自主学習帳を作っているが234+38=272といった計算に1ページを費やする。「4と8で12だけど、10は繰り上げておいて......」と延々と解説を書くのだ。教える事が好きで、学校で習ってきたことを、何も知らないおじいちゃんに教えようとする。「次に」とか「例えば」という言葉を使いたがるのが面白い。

お姉ちゃんとは5歳も年が違う。ましてお姉ちゃんは稀代のしっかり者だから、いくら頑張ってもかなうわけがない。自然、家の中ではいつまでも赤ちゃん扱いされてしまう。お父さんお母さんに甘えて抱っこしてもらっている。ところが、外面は違うのだと言うことがわかった。保育園ではいつも遊びのリーダーで、かなり幅を利かせていたそうだ。お姉ちゃんの様子を見て、どうすればお姉さんぶれるかを研究したらしい。

学童保育では、一年生の面倒を見るのに忙しい。学校でも友達を指導しようとする。人一倍お姉さんぶるのが好きなようだ。学校でいじめられている子がいた。一人っ子で気が弱く、そのくせ賢くて何でもできると言うのがいじめられる原因らしい。いじめる子がいて、それにみんなが逆らえない。そんな中で、「いじめる子とは私も遊ばないよ」と言ってのけた。義侠心を発揮してくれたことが嬉しくて、母親はこの話に拍手したと言う。

何の進歩もなく、衰退するばかりの僕に代わって孫たちはそれぞれに個性を発揮して育っている。孫たちが育っていると言うことは僕が年を取っていると言う事なのだ。それが世代交代と言うものだろう。僕の時代は否応なく終わらざるを得ない。だがもう少しこの孫たちの行く末を見つめたい。
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あの時代僕にはどんな生き方が [日常日記]

人間は歴史の制約の中で生きている。大谷翔平がいくら優れた選手であっても野球のない時代に生まれたら活躍の仕様がない。僕が科学者としてやって来たささやかなことも、丁度、エレクトロニクスが発展し、コンピュータが使われだした時代に生まれたからこそである。

僕がもう少し早く、親の時代に生まれていたらどんな生き方があっただろうか。戦争の最中だ。戦死していた確率が高い。天皇陛下バンザイを叫んで死ぬほど単純ではなかっただろうと思う。しかし、この戦争が勝ち目のない馬鹿馬鹿しいものだと見抜くことが出来ただろうか。

アメリカは日本の10倍の国力があるから勝てるわけがないと思った人はいるようだが、これは説得力がなかった。日清戦争も日露戦争も10倍の国力を持つ相手と戦って勝ったのである。戦争は国力ではなく戦闘意欲であり、日本には大和魂があると言われればそれまでだ。

戦闘意欲の根源になっていたのは「満州は日本の生命線」と言う考え方だ。日本には全く資源がなく、満州を取らないことには生きて行けない。中国には満州の資源を有効利用する能力がないから日本が変わって支配する。それがアジアを発展させる道だという大東亜共栄圏構想だった。

これには説得力があった。資源がなければどうにもならない。当時、これに反論した人は誰もいない。僕も引き込まれていたのではないだろうか。戦争の良し悪しではなく勝ち負けでもなく、これ以外に日本に生き残る道がないとすれば、そのために命を捨てることもやむを得ないと思ったかも知れない。

今から思えば「満州は日本の生命線」が間違っていた。この事はもっと協調されるべきだ。資源はなくとも経済発展が出来た。高度経済成長は資源を輸入して達成されたのである。侵略戦争で犠牲を払う必要はなかった。だが、それを見抜いた人は誰もいなかった。人は歴史の制約で生きていたのである。

満州を取ろうとすれば当然中国は抵抗する。国際世論は中国の味方であり。中国を支援するアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。ここまで来れば、おそらく僕も不味いことになっているとは感じただろう。さりとて「満州は日本の生命線」を否定することも出来ず、他の多くの人たちと同じように、消極的に戦争にのめりこんで行ったのではないだろうか。

戦争では1000万人のアジア人を殺し300万人の日本人が死んだ。戦死というがその実態は戦闘ではない。徴兵されて南方に移送される途中で、すし詰めの輸送船が沈んで死んだ人が多い。現地についても栄養不足と過労だから病気にならないのがおかしい。日清戦争でさえ80%が戦病死している。体力があって病気にならなくとも、砲撃・爆撃は激しく、多くは支給された銃を一発も打つ前にで死んだ。餓死もある。特攻隊も1298機もが出撃して沈めた船は数隻だ。殆どが敵艦に近づく前に撃ち落とされて結果的には単なる自殺でしかなかった。勇ましい戦死などどこにもなかったのである。

僕があの時代に生きていたら、おそらく、つまらない死に方から逃れる道はなかっただろう。捕虜になって生き延びることを考えたかも知れない。実際、そういう人もいたが、敵前逃亡は死刑だ。見つかれば日本軍から撃たれた。手を挙げて出て行っても日本軍を憎むゲリラ兵に撃たれた。負傷で気を失って気が付いたら捕虜になっていたと言うのが一番幸運な人だ。普通は負傷すれば、さらに生き延びにくい。友軍に迷惑をかけることになるから自決と言う場合も多かった。

僕の父親は、片足が動かぬ障害者だったので丙種不合格となり、徴兵されていない。しかし同級生の多くは軍医として出征して死んでいる。随分と肩身がせまい思いをしたそうだが、そのおかげで今日の僕がある。戦争は二度とやってはならないことだ。憲法を変えて戦争が出来るようにするなどとんでもない。誰もがやむを得ない犠牲だと思った戦争が、実は意味がない馬鹿馬鹿しいものだった。この歴史の教訓に学ばずしてなんとするのだ。
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この死だけはどうしても受け入れられない [日常日記]

娘が亡くなった。
明るい陽ざしの中を、周り一面に、笑顔を振りまいて、
トパーズ色の風と共に駆け抜けて行ってしまった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。


僕らに親として生きる事の幸せを教えてくれた。
素直で優しく、何事も一生懸命に取り組む素晴らしい子だった。
運動音痴の僕とは違い、体力にも恵まれていて駆けっこも早かった。
心身ともに健康とはお前のためにあるような言葉だった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

小さい時から器量が良かった。
周りの人が振り向いて、可愛いねと声をかけてくれる度に僕は鼻高々だった。
イリノイの古い田舎町に住んだ時、
初めてのアジア人に対する冷たい視線が
暖かく変わったのはお前の笑顔があったからこそだ。
「日本人の子はきれいだね」とあちこちで聞いた。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

せっかくの勉強がもったいないなと思ったけど、
結婚して素晴らしい孫たちを生んでくれた。
孫たちはお前と同じように元気で優しい。
楽しそうに学校に行き、しっかりと勉強もする孫たちに目を細め、
母親としてのお前に満足感を持った。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

子育て10年の後に、また働きたいと言い出した。
社会人公募の採用でいきなり最年少の課長補佐だよ。
見事な復帰の仕方だった。
活躍を新聞などで見るたびに切り抜いたりして楽しんだよ。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

僕の体調が悪くなり、連れ合いが入院した時も毎日、往復60㎞をいとわず来てくれた。
僕の病院通いはお前に助けられてのものだった。
病院のスタッフによくやる娘さんだねと言われるたびに、ぼくも嬉しかった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

乳がんが全身骨転移、肝臓に、さらに脳髄に。
元気そうに見えたけど本当は僕よりずっと重体だった。
ぼくと同じ日に入院したのだが、あっという間だった。
最後は、まただれもが癒されるあの笑顔を思わせる安らかな顔になったという。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。


「先に逝くなんて私は親不孝だね」
そんなことがあるものか。お前は何一つ悪くない。
幸せに生きるあらゆる要素を準備してきたたお前が、
なぜ41年で人生を中断しなければならないのだ。
僕はこの死を、どうしても、どうしても受け入れられない。
悪い夢だ。悪い夢に違いない。

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懸案の免許更新できたぞワーイ [日常日記]

たかが運転免許の更新くらいで何を喜んでいるのかと言われそうだが、僕にとってはなかなかの難事業だったのである。70歳になると教習所に行って「高齢者講習」を受けることが更新の条件になる。この事を通知されたのが入院の直前だ。当然のことながら入院していたのでは教習所に行けない。早い目に予約しないと定員オーバーで講習を受けられなくなってしまうとも書いてある。早く予約しなければと思うのだが、いつ退院できるともわからないのでは予約のしようがない。入院が長引けば運転免許はあきらめなければならない。

ステロイドミオパシーで筋肉が無くなって来ているから、達者に歩くわけには行かない。杖にすがって歩く身としてはバス停まで歩くのはつらい。電車のホームを延々と歩くなど思いもよらない。車あっての行動の自由だ。ここで運転免許を失うことはまさに死活問題なのだ。長期入院は困る。

なんとか期日前に退院はできたのだが、もう誕生日は目前だ。寝たきり生活の影響で筋力は極端に衰えている。教習所に出かけられるか定かではない。さらに不味いのは、時々原因不明の発熱があることだ。38.5度なら講習どころでは無い。仕方がないから、発熱周期をにらんで、誕生日を少し過ぎた頃の予約を入れた。一種の賭けである。免許の更新は誕生日の一か月後が期限だ。

講習の当日、体温を測ると37.2度。万全ではないがなんとか行けそうだ。講習は4時間となっているが、これもなかなか問題だ。4時間は長く、座っているだけでも苦しい。普段はせいぜい1時間で横になっているのだ。教習所の固い椅子ではとても持たない。クッションンなんかを用意して車椅子のまま受けさせてもらうように頼み込んだ。

教習の内容は驚くほど無内容だった。警察と教習所が結託して5000円をふんだくるだけのものと言ってよい。申込書に記入して、アンケートの回答をチェックに30分。高齢者は体の反射神経が衰えているというビデオが15分。それから視野と視力の検査なのだが、順番で一人づつやるから待ち時間がほとんどだ。これに合格不合格はない。単なる参考だというのだ。それから実地運転。何十年ぶりで教習所のコースを走った。これも順番待ちの時間が長い。確かに合計4時間かかった。

馬鹿馬鹿しい講習で、へとへとに疲れたが、なんとか終了証がもらえた。これを近くの警察署に持って行けば免許の更新ができるはずだ。ところがである。

翌日、警察署に行くと、補聴器を使っていることを見とがめられてしまった。難聴は運転免許の条件に引っかかるのではないが、そういう人は警察署ではなくて県の免許センターまで行かなければならないと言われた。遠くまで出かけて長く待たされたら講習よりつらい。補聴器を外すと近くでも聞こえないのだが、半分山カンで受け答えをしたら、まあいいでしょうと言うことになった。危ういところだった。

身体状況の申告書も書かされた。「体が自由に動かないことがあったか?」と言う設問があり、車椅子で行っているのだから「はい」と答えるしかない。これもまた問題になった。設問に一つでも「はい」がある人は警察署で更新できないそうだ。しかし、設問をよく読んでみると「病気が原因で」という一言がついている。僕の場合、長く寝込んだことが原因で足腰が弱っているのであり、白血病も間質性肺炎も体が自由に動かなくなる病気ではない。そんな理屈をこねて、「いいえ」に訂正させてもらった。

少し待っていてくださいと言われ、なにやら上司と相談していたが、結果的に更新が出来ることになった。いつになったら少し歩けるようになるのかまだ見通しは立たないのだが、少なくとも出かける希望だけは確保した。これでリハビリに励む意味ができる。

ワーイ、免許の更新ができたぞ、ワーイ、ワーイ
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無理やりの温泉行きは楽じゃない [日常日記]

少し歩けるようになったら温泉に行きたいと思っていた。しかし、なかなかリハビリは思うように進まない。しびれを切らせて強行することを思いついた。車椅子でのお出かけになるが致し方無い。久しぶりに息子が帰ってきたから温泉行きのチャンスなのである。連れ合いでは男湯に入れないので介助を頼む訳に行かないからだ。夏休みでどこも混んでいるのだが、うまく日光湯元に予約を取ることが出来た。

とは言うものの、道中4時間、車に座っているのが辛いのではないかと懸念される。普段はすぐに横になる。まあ寝たきりみたいな状態だからだ。しかし、4時間は免許更新の時の実績があるから、やれないことではない。体調次第の冒険ではある。

息子に運転させて出発したのだが、彼は日本に帰って来てまだ3日目だ。ウインカーとワイパーを必ずと言っていいほど間違える。僕にも経験があるが鬼門は一車線から二車線の道に入る所だ。うっかりすると右側車線にはいってしまう。乗っていて安心と言うわけではない。

問題なのは道中、音楽が途切れなく鳴っている事だった。息子は音楽がないと運転できないらしい。沢山CDを持ち込んでいる。車内の音楽も悪いものでは無いのだが、絶え間なしというのは疲れる。補聴器を外してもカシャカシャ断片は聞こえてしまう。目を瞑って座り続けの苦痛に耐える事4時間、景色はほとんど見ていない。

日光湯元は山に囲まれ、湖に面する美しいところだ。木立の中を散策する散歩が楽しいのだが今の僕には出来ない。宿に着いたら着いたで結構忙しい。まず呼吸器や酸素発生機の設営がいる。騒音を避けられるように配置したり、チューブを引き回したり、結構面倒なのだが、僕が自分でやれば慣れているから造作ない。しかし、今回はこまごまと指示を出して全部やってもらわなければならない。実にもどかしい。

しばらく休んでから、意を決して大浴場に向かう。脱衣場までは車椅子で行ける。脱衣場から洗い場までは壁伝いなのだが、そこから先が問題だ。洗い場を横切って湯船に到達する経路には体を支えるものが何もない。人に支えてもらうのは実は不安定で体が揺れ、その拍子に膝の力が抜けて崩れ込んでしまいかねない。見回すと洗い場用に背もたれの付いた椅子があった。これを持って来てもらって伝う事にした。

湯船に入る手すりの所まで来ればしめたものだ。手すりにすがって湯船に降りる。おー、久しぶりの温泉だ。深々と湯に体を沈め心地よしとはなったのだが、湯船から出る時の事が気になった。出るには上りのステップがある。そそくさと湯船からの脱出を試みたのだが案の定、足が上がらない。ステップが大きすぎる。焦りまくったが、結局、洗面器を沈めて踏み台にすることで解決した。湯船を出た時には、息切れで疲れ果ててしまっていた。車椅子を風呂場の中まで持ち込んでもらって退散することになった。

部屋に帰ってやれやれ一休みと思っていたら、もう食事の時間で食道に行かねばならない。息が整わないままご馳走に立ち向かう。大体、温泉の夕食と言うのは量が多い。かつて「わんこそば」を117杯食って賞状をもらったほどの大食いだった僕としては、食べ残しをすることがそれだけでストレスになる。無理やり口に押し込んだだけで、味あう余裕なんかなかった。

帰りの道中も難行苦行であったことは言うまでもない。しかしながら、念願の温泉行はできた。かなりの達成感がある。僕の身体もまだまだ捨てたものでは無い。ただまあ、旅行や温泉を楽しむためには、もう少し体力がいる事は事実だ。今回は苦しいばかりで「楽しむ」には程遠かった。リハビリ修行がまだまだ足りないことを思い知った。

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老人のパソコン使いはどのくらい [日常日記]

もう一息なのだが、まだ入院は続いている。膿胸はなかなかしつこい。そこに持って来て来週は連れ合いも入院することになった。我が家はダブル入院になる。連れ合いの入院は白内障の手術だからたいした事はない。しかし、連れ合いの入院中に寝た切りの僕が退院になればどうなるのだろう。施設にでも入れてもらうしかないのだろうか。施設に入るとどうなるのかブログ検索をして見て驚いた。一件も見つからない。

母がちょっとお世話になって、特養に出入りしたことがあるが、特養の入居者はコミュニケーション力が弱い。鋭敏な聞き取りが出来ないと何を言っているのかわからないので会話はヘルパーさんとしかできず、入居者どうしでの会話はほとんどない。談話室にずらっと並んでボケーとテレビをの方向を見ている光景は異常だった。この人たちがブログを書いたりしないことはわかる。

特養は入居基準が厳しいから高度に活動力が低下した人でないと入れない。しかし、有料老人ホームなどもっと元気なお金持ちもいるはずである。パンフレットにはテニスをしたりゴルフをしたりする姿が載っているが、このあたりがどうも疑わしい。だからブログを読んでみたいのだが見つからない。施設に入っている人はPCを使わないらしい。宣伝にもwifi完備などと書いてあるものがない。

70歳代後半以上、つまり職場でコンピュータを使わなかった年代が主流だろうから無理もないとは思うのだが、それではどれ位の年代からPCを使うのが当たり前になるのだろうか。僕は職業柄若い時からコンピュータに慣れ親しんでいるが、パンチカードのIBM360や紙テープのPDP-11を使った人はそう多くないはずだ。我々団塊世代でも実はパソコン使いでない人はかなりいる。

普通の職場でPCが使われ出したのは、2000年頃、つまり我々が50を超えた頃だ。ここで対応が2つに分かれた。若いものに追い立てられるように、現場で必死に勉強した人や趣味でBASICにはまり込んだ人と、やらないと決めてしまった人だ。

やらないと決めてしまったのは、エラくなってしまっていた人に多い。メールは秘書にプリントさせて読むし、稟議書は部下に書かせてチェックするだけだ。開業医など職業的圧力が無い人もPCを学ぶチャンスを逸してしまった。教師などでガリ版からワープロへの変化について行けず鬱になったり、退職してしまった人もいる。

結局の所、団塊世代でパソコン使いは半数にも満たないのではないかと思う。そうすると老人施設の入居者ブログが現れるのは、まだ10年早いことになる。

それでは、若い人ほど巧みにコンピュータを操るかというと、そうでもないらしい。「コンピュータ触ったことないです」という若者がいて驚いた。スマートフォンの普及で、従来コンピュータでやっていた事が、もっと簡単に出来てしまう。職場でもQRコードの読み取りやアプリのボタンを押すだけで終わってしまう所が増えているのだ。

未来はコンピュータの時代と思い込んでいたが、これは誰もがコンピュータを使う時代ではなく、自由自在にコンピュータに使われる時代なのかも知れない。
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