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あの時代僕にはどんな生き方が [日常日記]

人間は歴史の制約の中で生きている。大谷翔平がいくら優れた選手であっても野球のない時代に生まれたら活躍の仕様がない。僕が科学者としてやって来たささやかなことも、丁度、エレクトロニクスが発展し、コンピュータが使われだした時代に生まれたからこそである。

僕がもう少し早く、親の時代に生まれていたらどんな生き方があっただろうか。戦争の最中だ。戦死していた確率が高い。天皇陛下バンザイを叫んで死ぬほど単純ではなかっただろうと思う。しかし、この戦争が勝ち目のない馬鹿馬鹿しいものだと見抜くことが出来ただろうか。

アメリカは日本の10倍の国力があるから勝てるわけがないと思った人はいるようだが、これは説得力がなかった。日清戦争も日露戦争も10倍の国力を持つ相手と戦って勝ったのである。戦争は国力ではなく戦闘意欲であり、日本には大和魂があると言われればそれまでだ。

戦闘意欲の根源になっていたのは「満州は日本の生命線」と言う考え方だ。日本には全く資源がなく、満州を取らないことには生きて行けない。中国には満州の資源を有効利用する能力がないから日本が変わって支配する。それがアジアを発展させる道だという大東亜共栄圏構想だった。

これには説得力があった。資源がなければどうにもならない。当時、これに反論した人は誰もいない。僕も引き込まれていたのではないだろうか。戦争の良し悪しではなく勝ち負けでもなく、これ以外に日本に生き残る道がないとすれば、そのために命を捨てることもやむを得ないと思ったかも知れない。

今から思えば「満州は日本の生命線」が間違っていた。この事はもっと協調されるべきだ。資源はなくとも経済発展が出来た。高度経済成長は資源を輸入して達成されたのである。侵略戦争で犠牲を払う必要はなかった。だが、それを見抜いた人は誰もいなかった。人は歴史の制約で生きていたのである。

満州を取ろうとすれば当然中国は抵抗する。国際世論は中国の味方であり。中国を支援するアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。ここまで来れば、おそらく僕も不味いことになっているとは感じただろう。さりとて「満州は日本の生命線」を否定することも出来ず、他の多くの人たちと同じように、消極的に戦争にのめりこんで行ったのではないだろうか。

戦争では1000万人のアジア人を殺し300万人の日本人が死んだ。戦死というがその実態は戦闘ではない。徴兵されて南方に移送される途中で、すし詰めの輸送船が沈んで死んだ人が多い。現地についても栄養不足と過労だから病気にならないのがおかしい。日清戦争でさえ80%が戦病死している。体力があって病気にならなくとも、砲撃・爆撃は激しく、多くは支給された銃を一発も打つ前にで死んだ。餓死もある。特攻隊も1298機もが出撃して沈めた船は数隻だ。殆どが敵艦に近づく前に撃ち落とされて結果的には単なる自殺でしかなかった。勇ましい戦死などどこにもなかったのである。

僕があの時代に生きていたら、おそらく、つまらない死に方から逃れる道はなかっただろう。捕虜になって生き延びることを考えたかも知れない。実際、そういう人もいたが、敵前逃亡は死刑だ。見つかれば日本軍から撃たれた。手を挙げて出て行っても日本軍を憎むゲリラ兵に撃たれた。負傷で気を失って気が付いたら捕虜になっていたと言うのが一番幸運な人だ。普通は負傷すれば、さらに生き延びにくい。友軍に迷惑をかけることになるから自決と言う場合も多かった。

僕の父親は、片足が動かぬ障害者だったので丙種不合格となり、徴兵されていない。しかし同級生の多くは軍医として出征して死んでいる。随分と肩身がせまい思いをしたそうだが、そのおかげで今日の僕がある。戦争は二度とやってはならないことだ。憲法を変えて戦争が出来るようにするなどとんでもない。誰もがやむを得ない犠牲だと思った戦争が、実は意味がない馬鹿馬鹿しいものだった。この歴史の教訓に学ばずしてなんとするのだ。
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