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無理やりの温泉行きは楽じゃない [日常日記]

少し歩けるようになったら温泉に行きたいと思っていた。しかし、なかなかリハビリは思うように進まない。しびれを切らせて強行することを思いついた。車椅子でのお出かけになるが致し方無い。久しぶりに息子が帰ってきたから温泉行きのチャンスなのである。連れ合いでは男湯に入れないので介助を頼む訳に行かないからだ。夏休みでどこも混んでいるのだが、うまく日光湯元に予約を取ることが出来た。

とは言うものの、道中4時間、車に座っているのが辛いのではないかと懸念される。普段はすぐに横になる。まあ寝たきりみたいな状態だからだ。しかし、4時間は免許更新の時の実績があるから、やれないことではない。体調次第の冒険ではある。

息子に運転させて出発したのだが、彼は日本に帰って来てまだ3日目だ。ウインカーとワイパーを必ずと言っていいほど間違える。僕にも経験があるが鬼門は一車線から二車線の道に入る所だ。うっかりすると右側車線にはいってしまう。乗っていて安心と言うわけではない。

問題なのは道中、音楽が途切れなく鳴っている事だった。息子は音楽がないと運転できないらしい。沢山CDを持ち込んでいる。車内の音楽も悪いものでは無いのだが、絶え間なしというのは疲れる。補聴器を外してもカシャカシャ断片は聞こえてしまう。目を瞑って座り続けの苦痛に耐える事4時間、景色はほとんど見ていない。

日光湯元は山に囲まれ、湖に面する美しいところだ。木立の中を散策する散歩が楽しいのだが今の僕には出来ない。宿に着いたら着いたで結構忙しい。まず呼吸器や酸素発生機の設営がいる。騒音を避けられるように配置したり、チューブを引き回したり、結構面倒なのだが、僕が自分でやれば慣れているから造作ない。しかし、今回はこまごまと指示を出して全部やってもらわなければならない。実にもどかしい。

しばらく休んでから、意を決して大浴場に向かう。脱衣場までは車椅子で行ける。脱衣場から洗い場までは壁伝いなのだが、そこから先が問題だ。洗い場を横切って湯船に到達する経路には体を支えるものが何もない。人に支えてもらうのは実は不安定で体が揺れ、その拍子に膝の力が抜けて崩れ込んでしまいかねない。見回すと洗い場用に背もたれの付いた椅子があった。これを持って来てもらって伝う事にした。

湯船に入る手すりの所まで来ればしめたものだ。手すりにすがって湯船に降りる。おー、久しぶりの温泉だ。深々と湯に体を沈め心地よしとはなったのだが、湯船から出る時の事が気になった。出るには上りのステップがある。そそくさと湯船からの脱出を試みたのだが案の定、足が上がらない。ステップが大きすぎる。焦りまくったが、結局、洗面器を沈めて踏み台にすることで解決した。湯船を出た時には、息切れで疲れ果ててしまっていた。車椅子を風呂場の中まで持ち込んでもらって退散することになった。

部屋に帰ってやれやれ一休みと思っていたら、もう食事の時間で食道に行かねばならない。息が整わないままご馳走に立ち向かう。大体、温泉の夕食と言うのは量が多い。かつて「わんこそば」を117杯食って賞状をもらったほどの大食いだった僕としては、食べ残しをすることがそれだけでストレスになる。無理やり口に押し込んだだけで、味あう余裕なんかなかった。

帰りの道中も難行苦行であったことは言うまでもない。しかしながら、念願の温泉行はできた。かなりの達成感がある。僕の身体もまだまだ捨てたものでは無い。ただまあ、旅行や温泉を楽しむためには、もう少し体力がいる事は事実だ。今回は苦しいばかりで「楽しむ」には程遠かった。リハビリ修行がまだまだ足りないことを思い知った。

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懸案の免許更新できたぞワーイ [日常日記]

たかが運転免許の更新くらいで何を喜んでいるのかと言われそうだが、僕にとってはなかなかの難事業だったのである。70歳になると教習所に行って「高齢者講習」を受けることが更新の条件になる。この事を通知されたのが入院の直前だ。当然のことながら入院していたのでは教習所に行けない。早い目に予約しないと定員オーバーで講習を受けられなくなってしまうとも書いてある。早く予約しなければと思うのだが、いつ退院できるともわからないのでは予約のしようがない。入院が長引けば運転免許はあきらめなければならない。

ステロイドミオパシーで筋肉が無くなって来ているから、達者に歩くわけには行かない。杖にすがって歩く身としてはバス停まで歩くのはつらい。電車のホームを延々と歩くなど思いもよらない。車あっての行動の自由だ。ここで運転免許を失うことはまさに死活問題なのだ。長期入院は困る。

なんとか期日前に退院はできたのだが、もう誕生日は目前だ。寝たきり生活の影響で筋力は極端に衰えている。教習所に出かけられるか定かではない。さらに不味いのは、時々原因不明の発熱があることだ。38.5度なら講習どころでは無い。仕方がないから、発熱周期をにらんで、誕生日を少し過ぎた頃の予約を入れた。一種の賭けである。免許の更新は誕生日の一か月後が期限だ。

講習の当日、体温を測ると37.2度。万全ではないがなんとか行けそうだ。講習は4時間となっているが、これもなかなか問題だ。4時間は長く、座っているだけでも苦しい。普段はせいぜい1時間で横になっているのだ。教習所の固い椅子ではとても持たない。クッションンなんかを用意して車椅子のまま受けさせてもらうように頼み込んだ。

教習の内容は驚くほど無内容だった。警察と教習所が結託して5000円をふんだくるだけのものと言ってよい。申込書に記入して、アンケートの回答をチェックに30分。高齢者は体の反射神経が衰えているというビデオが15分。それから視野と視力の検査なのだが、順番で一人づつやるから待ち時間がほとんどだ。これに合格不合格はない。単なる参考だというのだ。それから実地運転。何十年ぶりで教習所のコースを走った。これも順番待ちの時間が長い。確かに合計4時間かかった。

馬鹿馬鹿しい講習で、へとへとに疲れたが、なんとか終了証がもらえた。これを近くの警察署に持って行けば免許の更新ができるはずだ。ところがである。

翌日、警察署に行くと、補聴器を使っていることを見とがめられてしまった。難聴は運転免許の条件に引っかかるのではないが、そういう人は警察署ではなくて県の免許センターまで行かなければならないと言われた。遠くまで出かけて長く待たされたら講習よりつらい。補聴器を外すと近くでも聞こえないのだが、半分山カンで受け答えをしたら、まあいいでしょうと言うことになった。危ういところだった。

身体状況の申告書も書かされた。「体が自由に動かないことがあったか?」と言う設問があり、車椅子で行っているのだから「はい」と答えるしかない。これもまた問題になった。設問に一つでも「はい」がある人は警察署で更新できないそうだ。しかし、設問をよく読んでみると「病気が原因で」という一言がついている。僕の場合、長く寝込んだことが原因で足腰が弱っているのであり、白血病も間質性肺炎も体が自由に動かなくなる病気ではない。そんな理屈をこねて、「いいえ」に訂正させてもらった。

少し待っていてくださいと言われ、なにやら上司と相談していたが、結果的に更新が出来ることになった。いつになったら少し歩けるようになるのかまだ見通しは立たないのだが、少なくとも出かける希望だけは確保した。これでリハビリに励む意味ができる。

ワーイ、免許の更新ができたぞ、ワーイ、ワーイ
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一ヶ月、いまだに寝たまま引きこもり [療養]

退院から一ヶ月。元気になって今頃は温泉にでも出かけているはずだった。ところがそうは甘くない。いまだに寝たきりに近い生活が続いている。原因は正体不明の発熱だ。周期的に発熱が起こり、37度台半ばが3日ほど、続いて38度台半ばの苦熱が2日、そしてまた37度台にもどる。こうなると寝ているより仕方ない。crpは12.白血球は15000もある。ところがCTを撮っても肺に大きな変化はない。呼吸器、腎泌尿器、膠原病でそれぞれ原因を他科に押し付けあっている状態だ。

もともとステロイドミオパシーで筋肉がほとんど無くなってしまい、かろうじて杖にすがって歩ける状態だったのだが、寝込めば極端に筋力が落ちてしまう。熱が下がったらリハビリに励むことが必要なのだが、息切れがして有酸素運動は出来ない。そうこうしている内にまた発熱で寝込む。そんな事の繰り返しで一ヶ月が過ぎたというわけだ。

それでも負けてはおれない。備えあれば憂いなし。正確には「憂い少しまし」だが、2階に上がるには昇降機が設置してある。これで風呂やベッドのある2階への行き来は問題がない。狭い家のありがたさ。家の中ではどこでも伝い歩きで行ける。しかし、起き上がって、立ち上がった時にはすでに息切れしてしまっているのが問題だ。SPO2も80代に下がってしまう。

外に出かける用意もしてある。玄関から車まで3m。段差があるのだが、いくつも踏み台を設置してある。壁伝い、ドア伝い、垣根伝いで車まで行けるのである。車椅子をレンタルするのは娘の49日法要のために練った策だが、これで一応どこにでも行けることになった。

車への乗り込みは、息切れでなかなか苦しいのだが、いいリハビリであることには間違いない。熱さえ出なければ、そのうち歩けるようになると確信している。現実は容易くなく、時々膝の力が抜けて立っておれなくなる。一度ひっくり返ると立ち直りには悪戦苦闘しなければならない。

一番問題になるのは車の乗り降りで転んだ時だ。屋内とちがい床はコンクリートだ。通院で車から降りて家に入ろうとしたときに不覚にも転倒してしまい。額を撃って、病院に運び込まれるはめになった。4針縫って抜糸までフランケンシュタインだ。

車への乗り降りは、近所の友人が来て、手助けしてくれることが条件になった。友人の親切はありがたいのだが、これも実は具合が悪い。寿司とかラーメンを食いに行ったりするつもりだったのだが、通院はともかく、こんなことで頼むのは、あまりにも心苦しい。まあ、用心深く実績を積んで、「見守り」なしで、出かけられると認められるしかない。

まだしばらく引きこもりは続く。
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退院で家での生活立て直し [日常生活]

入院治療は膿化した胸水の排出を目的としたものだ。粘度が高いからチューブ挿入だけでは出てこないと懸念されたがドレン量が予想以上だったので、膿の粘度を下げる薬剤を注入することになった。結果としてさらに多くの膿をドレンするすることが出来た。注入・排出を繰り返して行けばよい。3回目の注入後、ドレン駅に血液が混じってきた。炎症個所を洗い流した結果だが、炎症を広げる恐れがあるので薬剤投入は中止した。それでも膿の排出は続き、結果的には1リットル以上の胸水を抜き取る事が出来た。治療は8割がた成功したと言える。

チューブを抜き、あとは自力で胸水状態の回復を図るということだ。胸水に圧迫されて肺が委縮しており回復には時間がかかる。入院して5週間、やっと家に戻れることになった。しかし、なぜ胸水が溜まるようになったのかはわからない。根本原因が不明なまま自力での回復がどれだけ期待できるのか心もとない。再発ということも十分考えられる。それでも、今回の入院で、少なくとも再発に対する対処の方法があることがわかったから、少し安心だ。

もともと身動きは容易で なかったのだが、一ヶ月以上の寝たきり生活で筋力は、自分で思っているよりもさらに低下していた。車椅子から車に乗り移るのに失敗して転げてしまうし、車から家には3人がかりで運んでもらう始末だった。しかし、呼吸は楽になったし、座っているのが苦痛でなくなったから、もはや寝たきりではない。立ち上がりには苦労するのだが、身動き能力は日に日に進歩している。少しだが伝い歩きも出来るようになってきた。

家に戻りはしたが、以前の生活にそのまま戻るというわけには行かない。一番大きいのはやはり娘を亡くしたことだ。毎日のように訪ねて来てくれて、世話を焼いてくれていたし、心の支えにもなっていた。今も下手に目を瞑ると涙が湧いてきてしまう。娘が亡くなったことで、もう一つ失ったものがある。それは孫たちとの緊密なつながりだ。孫たちの様子は娘が時々刻々と伝えてくれていた。今はそれが無くなった。週末に家族で外出したら、孫たちを連れて我が家に立ち寄ってくれていた。今はそれがない。僕らにとっては少し寂しいことだ。

母親を亡くした子供たちを抱え、必死で生活しようとしている父親に余裕はない。父親の実家からおばあちゃんがやってきて、家事や孫たちの面倒を見ることになったようだ。「内孫」に対する責任感から実家の暮らしを犠牲にしても遠くから来て奮闘しているおばあちゃんには感謝すべきだろう。確かに僕たちにとっては「外孫」になる。しかし、この子たちは実にいい子で可愛い。多少身を引いた位置でもいいから孫たちの成長を支援して行きたいというのが僕らの願いだ。

連れ合いはおいしいマフィンの焼き方研究に余念がない。孫たちを引き付けようとしているに違いない。僕の方はもう少し自由に歩けるようになることが第一の課題だ。今のままでは孫の相手をすることも出来ない。リハビリを頑張るしかないだろう。悲しいかな連れ合いのように孫を引き付ける手立てがない。せいぜいルービックキューブを解いて見せるくらいの事だ。あれやこれや、退院で新たな生活の立て直しが始まっている。

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この死だけはどうしても受け入れられない [日常日記]

娘が亡くなった。
明るい陽ざしの中を、周り一面に、笑顔を振りまいて、
トパーズ色の風と共に駆け抜けて行ってしまった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。


僕らに親として生きる事の幸せを教えてくれた。
素直で優しく、何事も一生懸命に取り組む素晴らしい子だった。
運動音痴の僕とは違い、体力にも恵まれていて駆けっこも早かった。
心身ともに健康とはお前のためにあるような言葉だった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

小さい時から器量が良かった。
周りの人が振り向いて、可愛いねと声をかけてくれる度に僕は鼻高々だった。
イリノイの古い田舎町に住んだ時、
初めてのアジア人に対する冷たい視線が
暖かく変わったのはお前の笑顔があったからこそだ。
「日本人の子はきれいだね」とあちこちで聞いた。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

せっかくの勉強がもったいないなと思ったけど、
結婚して素晴らしい孫たちを生んでくれた。
孫たちはお前と同じように元気で優しい。
楽しそうに学校に行き、しっかりと勉強もする孫たちに目を細め、
母親としてのお前に満足感を持った。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

子育て10年の後に、また働きたいと言い出した。
社会人公募の採用でいきなり最年少の課長補佐だよ。
見事な復帰の仕方だった。
活躍を新聞などで見るたびに切り抜いたりして楽しんだよ。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

僕の体調が悪くなり、連れ合いが入院した時も毎日、往復60㎞をいとわず来てくれた。
僕の病院通いはお前に助けられてのものだった。
病院のスタッフによくやる娘さんだねと言われるたびに、ぼくも嬉しかった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

乳がんが全身骨転移、肝臓に、さらに脳髄に。
元気そうに見えたけど本当は僕よりずっと重体だった。
ぼくと同じ日に入院したのだが、あっという間だった。
最後は、まただれもが癒されるあの笑顔を思わせる安らかな顔になったという。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。


「先に逝くなんて私は親不孝だね」
そんなことがあるものか。お前は何一つ悪くない。
幸せに生きるあらゆる要素を準備してきたたお前が、
なぜ41年で人生を中断しなければならないのだ。
僕はこの死を、どうしても、どうしても受け入れられない。
悪い夢だ。悪い夢に違いない。

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