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ふるさとの空 [若かった頃]

お正月の間、晴れた日が多かった。やはり表日本だ。しかし、7日になって曇り空が現れた。これが僕にとっての冬らしい空だ。僕の育った山陰地方の冬と言えば、毎日がどんよりとした天気で、一月には何回か雪が降り、日陰には必ずザラメ雪の塊が残っていた。長靴をはいて、防空頭巾をかぶって遊びに出る。防空頭巾というのは、いまでは防災頭巾と言っているものだがもっと綿が分厚くて暖かいものだった。防空頭巾という呼び方は戦争中のものだが、戦後も同じ呼び方が続いていた。

冬は寒かったと思うが、子供たちは寒さをものともせず外で遊んだ。雪玉に泥を浸ませて強くした「きんかん」をぶつけ合って固さを競う。雪のへばりついて斜面を見つけて、竹を曲げたスキーやソリで遊ぶ。タコを作ってとばすこともやった。「子供は風の子、大人は火の子」と囃して寒がりを蔑んだものだ。

外遊びでかじかんだ手を温める家の中の暖房は、堀炬燵と火鉢だ。炬燵の燃料には練炭が使われていた。それが最新式で、多くの家では炭とか豆炭が使われていた。火鉢は木炭で、灰をかぶせて火力を調節する。寒いからと火鉢にまたがってお尻をあぶったりすると怒られた。火鉢には五徳があり、餅網をのせて餅を焼く。これだけで暖房が十分なわけはなく、家の中でも厚着だった。60年代になると、石油ストーブが入り、炬燵も電気式になっていった。

学校の暖房は石炭ストーブだ、だるま型のストーブと煙突が教室にあり、毎朝、当番がストーブに火をつける。新聞紙から木っ端そして石炭を入れる。良く燃えれば、鉄製のストーブの壁が真っ赤になるくらい高温になる。休み時間にはストーブの周りに子供たちは集まるのだが、自然に、ガキ大将のような奴が前を占める。女の子や弱弱しい連中は遠慮せざるを得ない。石炭を教室に運ぶのも当番の仕事だったが、なかなか重いものだった。

山に囲まれ、山の上には、冬のどんよりとした空がある。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」といったカールブッセの詩が、ぴったりと当てはまる情景だ。だれもが未来を山のかなたに置いていた。田舎には大学も工場もないから、多くの子供たちはやがて山のかなたに出ていく事になるのは必然だったのである。

僕は高校の途中で転校して、この街を出てしまったのだが、同窓会には呼んでもらっている。多くの友達が東京や大阪に出てきてしまっており、町に残っているのは少ない。あいかわらず、曇り空の中にあり、徐々に寂れている町だ。ほとんどの人にとって、仕事ができる場所ではないから、帰るわけには行かないことになっている。都会に留まる決意を込めた犀星の思いとは異なるが、まさに「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。

あえてUターンして町に戻っている友達からの年賀状は、つまらない普通の年賀状ではあったが、僕には格別な趣があった。しかし、ここ何年かで相次いで他界してしまったから、それも途絶えた。あの元気な少年たちが、この世にいなくなったのである。僕がまだ命を永らえている事すら不思議な気がする。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


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ゆりりん

なんて美しい、完成度の高いブログを書かれるのでしょう。感嘆して読ませて頂きました。ありがとうございました。
by ゆりりん (2017-01-09 08:11) 

おら

お恥ずかしい限りです。でも、読んでくださる方がおられるのは素直にうれしい。
by おら (2017-01-09 20:16) 

がみ

故郷を思い起しました。私が育った故郷も日本海側でどんより曇りの日が多かったです。故郷で過ごした年月より、今ここで暮らす年月の方が長いのに故郷の記憶の方が長く感じられます。想いも入ってるんですかね。
by がみ (2017-01-10 11:48) 

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