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お正月の今昔 [若かった頃]

2017年の元旦を迎えた。今年は、連れ合いが腰痛に悩まされたままだし、子供たちも来ないので、手抜きで正月を過ごすことにした。初めて「おせち」を買ってみた。もちろん、何万円もする高級品が買えるわけではない。食べる人数も少ないのだからと、一番安そうなものを申し込んだのだが、それでも1万円だった。

ところが、年末に届いた包みを開いて驚いた。ハム、焼き豚、エビチリ、フカヒレスープ、野菜の煮物等々、単なるオードブルに過ぎないことになる。連れ合いは腰痛に鞭打って、今年も急きょおせちを作り出した。お煮しめ、ごまめ、なます、黒豆、きんとん、だてまき、かまぼこ、かずのこ、かしらいも。こういったものを漆のお重に詰めると色合いも美しい。雑煮をくって正月の気分を味わうことができた。

どうも世の中の「おせち」は変わってきているようだ。いや、お正月そのものが変わってきてしまっている。街にも松飾を見かけないし、お店も平常どおり営業している。一年に唯一度の元日という風景は失われている。

僕が子供のころ、正月は確実に日常ではなかった。門松は商店などに限られていたが、どの家にもしめ飾りがあった。家族団らんの日だから、すべての店は閉まっていた。これは1980年ころまで続いたと思う。1970年当時でも、正月なしで実験する学生は食堂が閉まっていることで往生した。

正月は家々で違ったものになる。我が家の元旦のお雑煮は、京風で頭芋のはいった白みそだった。それぞれの名前を書いた袋にはいった祝箸をつかう。全員で「明けましておめでとうございます」と唱えてから食べ始める。我が家には初詣などという宗教心はなかったので、出かけず、百人一首、カルタ取りなどをしてすごした。日ごろ忙しそうにしている母も、ちょっと余所行きの着物を着て仲間に加わる。わずかなお年玉がポチ袋に入って渡され、中を覗いてほくそ笑んだものだ。届いた年賀状の品評も楽しみだった。達筆な筆書きや版画など凝ったものが多かった。印刷はつまらない。お昼はおせちと、砂糖醤油をつけた焼餅だった。

2日になると、お雑煮は、ゆず三ツ葉を入れた澄まし汁に焼餅をいれたものになる。町は動き始め、「初荷」と旗を立ててトラックが国道を走った。行きかう車には「お飾り」がついていたし、時折、父の職場の人たちが年始回りにおとずれる。年始回りといった風習はもうないだろう。元旦は少し遠慮するのだが2日になると友達を誘う。ぼくらは、凧揚げに行ったり、コマ回しをして遊んだ。なぜかこういった遊びは正月にするものだと決まっていた。お昼には、焼餅に黄な粉を付けた「あべかわ」を食べた。

書初めをしたのは3日だったと思う。毎年必ずやることになっていた。家族全員が順次筆を執り、作品の出来不出来よりも、姿勢とかにうるさかった。「おうす」というのも我が家の慣例だった。座敷に正座させられ、茶筅で抹茶を掻き立てて母がお茶をいれる。にがいお茶を飲んでからでないと甘い羊羹のようなお菓子が食べられない。「けっこうでした」とご挨拶もしなければならない。

正月の三が日というのは、明らかにに特別な日だった。四日は仕事始めなのだが、街には振袖姿が目立った。若い女性社員は振袖を着て出社する。そんな格好だから仕事はしないで挨拶だけだ。当時は「時給」などという働き方はなかった。全ての人が正社員だからこそできたことだ。当時から正月営業したほうが儲かっただろうが、人々は金もうけよりも、特別な日を楽しむことを優先した。それは、一種の余裕だったかもしれない。正月が失われているというより、余裕が失われているというのが正しい。
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