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僕の一番古い記憶 [若かった頃]

ロマンロランの「ジャン・クリストフ」は生まれて来る時の記憶から始まっているが、これは絶対ウソだろう。誰も1歳の時の記憶は持ち合わせていない。僕は1歳のときに「ジフテリア禍事件」に遭遇して人生最大の危機に瀕したはずなのだが、その記憶は全くない。

人間の記憶は大体3歳ころから始まると言われているが、確かに僕の一番古い記憶は3歳の時のことだ。父が若狭湾にある町の病院に赴任して見知らぬ町での生活が始まった。1950年当時は、まだ戦後のどさくさが終わっていない。極端な住宅不足で、おいそれと住む家が見つからない。住む家を見つけるのが大変だったらしい。もちろんこれは、あとで聞いた話だ。

やっと見つけた家は、いわゆる「2戸1」で、一軒の家を半分に切って、玄関を二つ付けた構造のものだ。こういった借家が3軒、まんなかの井戸のある空き地の周りに配置されていた。この井戸は、夏にスイカを吊り下げて冷やすような事はあったが、日常的には使われておらず、代わりに水道の蛇口が1つあった。6軒の家で使う共同水道だ。お母さん達は、ここで交代で洗濯をしたり、米を研いだりして、毎日が近所付き合いだった。まさに「井戸端会議」の場だ。もちろん、風呂はなく、歩いて10分くらいの銭湯に通っていた。

僕は、引っ越した家から、おずおずと外に踏み出した。不安と期待で胸がいっぱいだったに違いない。広場では何人かの子ども達が集まって遊んでいた。遊びの仲間に入れてもらい、ここで年齢を聞かれた。指を3本出して「3つ」と答えたのを鮮明に覚えている。だから、僕の一番古い記憶が3歳であることは間違いがない。

「ゆきちゃん」のお父さんは、国鉄の保線係というか線路工夫、「まあちゃん」のお父さんは大工さん、「たけちゃん」の家は、数軒離れたたところにある駄菓子屋さんだった。リーダーは「かいちゃちゃん」で、2つくらい年上の、医院の子だった。僕は、3年後にはまた引越ししてしまったから、この子たちとはその後の連絡がない。みんな元気のよいワンパク少年で、魚をすくったり、トンボを追いかけたりの楽しい毎日だった。格差が少なく誰もが庶民だった時代だ。

他の子はともかく、この「かいちゃちゃん」の本名が何だったのかがずっと謎だった。母が死ぬ前に教えてくれて「カズヒサ」だったことがわかった。呼び名とは妙なものだ。僕は「ぼやちゃん」と呼ばれていた。母親が「坊や」と言ったのが、名前と解釈されたらしい。「まあちゃん」のお父さんは、遠くで仕事をしているということだったが、実はコソ泥をしてしまって、刑務所にいたことも、60年経ってから知った。

ここでの、大きな事件は、13号台風だった。2015年にも常総市で洪水の被害があり、大きく報道されったが、結局死者はでなかった。当時は毎年、台風で死者が出るのが当たり前だった。1953年の台風13号は、死者393名行方不明85名という記録になっているから、熊本地震など昨今の自然災害の比ではない。

近くの与保呂川があふれて、家の周り一面も水が流れる状態になった。事態の深刻さを知らない僕は折り紙で舟を作って流したりしてご機嫌だった。ところが、水が玄関にも流れ込み、僕の下駄が浮き出した。このとき初めて恐怖を感じたのだろう。とたんに僕は泣き出してしまった。地についてるはずの下駄が浮きだしたことが恐怖の引き金になったのだ。プカプカ浮かぶ下駄を覚えている。消防団の人達が、僕を抱えて濁流を渡ってくれて、一段高い線路伝いに山際の神社まで避難した。

翌朝は晴れて、いい天気だったのだが、あたり一面は泥で埋まっていた。長靴を履いた僕も家に帰ろうとしたのだが、泥に長靴を取られて、すっぽり抜けた足で泥の中に踏み込んでしまった。これが、「しまった」と思った瞬間の最も古い記憶だ。その後も、「しまった」と思う度にこのときのことを思い出す。

これだけ鮮明な記憶が、確かに半世紀以上も昔のことであるとは、実に不思議な気がする。ときどき「あなたの一番古い記憶は何歳の時ですか?」と聞いてみるのだが、明確に答える人は少ない。
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