SSブログ

学生運動の時代 [若かった頃]

今の大学と1970年頃の大学では、まったく雰囲気が異なる。当時は学生運動が爆発的に盛り上がり、我々団塊世代は全共闘世代などと言われることが多い。なぜ学生運動が盛んとなり、そしてまた急激に廃れたのかについて解明した論評は見当たらない。単なる回顧として風説をそのまま書いたり、自分を正当化したりする本が多いし、学生時代の言説と現在の自分の矛盾を語りたがらない人も多い。

戦後、日本国憲法の時代になって、一番大きく変わったのは教育である。上下なく、なんでも合議して、民主的に決めることが浸透しようとしていた。世の中ではまだ戦前の慣習がはびこっていたが、学校には民主主義がいち早く取り入れられた。小中学校でも校長ではなく職員会議が最高決定機関だった。教師は生徒に命令することを止め、子ども達は学級会で議長や書記を決めて民主的な手続きでものごとを決めることを学んだ。

大学自治が唱えられ、大学は全く独自の運営を行い、文部省は単なるお世話官庁であることを自認していた。大学の内部も民主的な運営に転換した。1950年に発行された父の学位記を見たら、授与者は学長ではなく教授会だった。各大学に学生自治会が結成され、学生自治会と教授会の協議が重視されるようになっていた。

しかし、日本国憲法が公布された直後から「逆コース」が始まっていた。自衛隊が発足し、勤務評定で教師が校長の配下に置かれ、大学も予算を通じて文部省の支配を受け入れるようになっていったのである。米軍による日本占領が終わったあとも米軍基地が居座り続けるのはおかしい。世の中では、それも仕方ないということで自民党政権が続いたのだが、大学内では安保条約反対が圧倒的に多かった。大学は反政府運動の出撃基地になった。

大学は、理屈で物事を考え、因習の支配が大きかった一般世間と乖離した世界だったのである。大学進学率が10%以下で、殆どの人が大学などには行かなかった時代には、大学が別世界であることも平然と受け入れられていた。若者の10%だけが別の考えを持ったとしても大勢に影響もなかったからである。大学は別の文化を持った特別な場所と認められていたのである。

60年代の高度経済成長は進学率の急激な増加を生み出した。親の農業や商売を受け継いで行くことが一番安定した生活をもたらす時代が終わり、誰でも勉強ができれば大学を目指すという時代が始まったのである。大学進学率は10%を超え、さらに上昇していた。僕が入学した1966年には12%、1975年には28%になった。学生はエリートと呼ぶには多すぎ、一般大衆と考えるには少ない中途半端な存在になった。

地方の高校から都会のメジャーな大学に進学する学生が一番多かったのはこの時代だろう。今は、地方出身者が減ってしまい、一流大学への進学は、都会の有名高校に限られているという。

多くの学生が大学に入ってカルチャーショックを覚えた。確かに世間一般とは別世界なのだ。世間一般は因習に支配されていることに気がつく。大学は理屈どおりのことが当たり前の世界だった。理屈で考えれば共産党の主張が正しい。当時共産党の議席は5人くらいで、世の中でみれば政党支持率は微々たるものだった。それが学内では80%以上の圧倒的な支持率を得ていた大学もあっただろう。学生自治会はきっちりと選挙で役員を決めており、自治会の役員も民主的に選ばれていた。当然、学生自治会は共産党系の人たちが主導していた。

しかし、大学生は大きな不安に取り付かれていた。自分達はもはやエリートではない。象牙の塔は金の力でどんどん蝕まれているように見えた。科研費などといった研究費予算枠が始まり、大学の先生達は文部省に一本釣りされるようになって行った。ベトナム戦争が起こり、大国が罪ないベトナムの人々を苦しめ、日本政府はそれに加担している。学生達は、街頭に出てベトナム反戦を叫び上げた。このままでは埋もれてしまう、世の中を正すことなしに自分達の人生は成り立たない。そういった思いに駆り立てられたのである。鬱憤晴らしにはなったが、無力感が漂っていたことも事実だ。

ベトナム反戦運動を通して過激な行動を主張するグループも現れてきた。こういった過激派は、60年頃からいろいろ活動はしていたのだが、一般の学生とは縁がなかった。学生自治会の役員に立候補したりしていたが、もちろん支持が得られることはなかった。そこで彼らが思いついたのは、「全学共闘会議」「全学闘争委員会」を名乗り、まどろっこしい自治会の議論を飛び越えて行動を起こすことだった。教室をバリケードで封鎖して無理やり学生をストライキに引き込むことをやり出した。

これは大学自治・学生自治を内部から破壊する行為であり、大きな反発を受けた。しかし、大学自治はすでに侵食を受けていたし、このままでは、窒息させられるといった不安な雰囲気は絶えずあったのである。若い教員を排除して教授だけが権力を持つ教授会自治に対する批判も強かった。今から思えば全く自治が無いよりは、はるかにましだ。今まで何の考えもなかった人にとっては、考える機会となったことも事実だ。急に目覚めて全共闘活動家になった人もいる。

以前から過激派は警察との暴力的衝突を繰り返していたが、全共闘の発足で、暴力を学生にも向けるようになった。警察との衝突には負けるのだが学内での暴力は容易に効果があげられた。あちこちで学生自治会の役員を袋叩きにして「全共闘」が勝手にストライキを宣言するようなことが続いた。こういった暴力は一方的なもので、「内ゲバ」などとひとくくりにされるべきものではないのだが、そのように報道され、今も通用しているようだ。話題性・事件性という意味でマスコミが暴力的学生運動ばかりを取り上げたので、学生運動=全共闘といった図式がいつの間にか定着していった。それが政府の意図だったかもしれない。全共闘が掲げた「大学解体」は、ある意味で政府にも都合が良かったのである。

実際には学生自治会を中心とした暴力的でない学生運動も多くあったのだが、こういった運動はマスコミには黙殺された。5000人が集まった集会はニュースに載らず、200人が警察とぶつかった騒動だけが報道された。そうするうちに、学生の中にも過激であることが根源的であるかの思考が広まり、全共闘派が多数になったことはないのだが、ある程度全共闘を容認するような雰囲気が生まれた。クラス活動家だった僕は、分裂・対立を起こさないよう意識的に党派に属することを避けていたのだが、自治会の書記長に選ばれていた。しかし、自治会室は赤軍派に占拠されて、学生大会は流会し、次の執行部を選出できないまま学部を卒業してしまった。この時点で学生自治会は崩壊した。後輩達はバラバラになっており、全員加盟制自治会を運営する意欲を失っていたのだ。

全共闘は派閥に分かれ、行動の先鋭化を競うようになっていった。学生自治会を否定し、異なる意見を集約するのではなく、自己の主張を押し通すことが出発点だから分裂は避けられない。暴力は強い意思の自然な表れとする考え方だから派閥間の抗争も暴力的となり内ゲバが始まった。まじめな友人がどんどん過激な方向に陥って行くのに心を痛めた。

暴力への拝跪が蔓延して行った。根底には百の議論より1つの行動が結果を生み出すといった理性への失望があった。事実、選挙では相手にされなかった学生自治の主導権がゲバ棒1つで吹き飛んだのだ。しかし、暴力で学内を支配して天下を取っても社会の変革とは程遠い。「大学内のお山の大将」だとか、「ちょこっと警察と衝突してみせるお遊び」だとかの批判が一番堪えただろう。彼らは、命がけで本気で革命をやるのが自分の責任の取り方だと追い込まれることになっていった。

人間は自分の命を捨てるつもりになったとき、他人の命も、他の人の暮らしも小さく見えてしまう。過激派はますます過激となり、分裂し互いに殺しあう悲劇を生み、結局は自滅して行った。

大学内が全共闘に暴力的に支配されることになり、一般の学生の多くは、学内のごたごたに嫌気をさして、アルバイトや旅行に日を過ごすことになった。授業もなく試験もなく、そのまま卒業できるのは得だと思っている人もいた。一時は全共闘に共感を覚えた学生も運動からは離脱していった。同時に、自治会を中心とした非暴力の学生運動も衰退して行くことになった。70年以降の学生は、「無関心」か「全共闘」かの二者択一を迫られ、「無関心」にならざるを得なかったのたと思う。なぜ全共闘に共感を覚えたか、なぜ脱落したか、なぜ暴力を容認したかについて、明確に答えられる人は少ないだろう。雰囲気に踊らされた自分の浅はかさを暴露してしまうだけだからだ。

全共闘運動の結果、大学にも傷が残り、ますます自主性を失った。学問の府としての誇りを失い世の中の役に立つことだけを考えるようになった。教授会の権限はなくなり、学長は文科省の意向には逆らえず、研究資金獲得のためにはなんでもする。それが当たり前のようにようになり、今ではほとんどの大学で学生自治会は機能していない。大学生はまぎれもない一般大衆であり、大学は18歳以降の居場所に過ぎない。学生も多大な授業料を卒業後の就職で取り戻すことに必死だ。学生は、完全に沈黙させられているのに近い

学生運動の盛り上がりは、民主主義が日本に導入されて、確立されたかに見えた大学の自治が壊れていく過程で現れた過渡現象だったのである。民主主義に敵対してしまう全共闘の発想自体が思想的屈服だった。一見盛り上がりと見えたのも崩壊の過程で見られたあだ花に過ぎない。だから膨大なエネルギーを費やしたが、何らかの成果が残せるといった筋合いものではあり得なかった。戦後一貫して「逆コース」は続き、アベ政権に至っている。日本人はいつか、徹底的に追い詰められた時に初めて立ち上がるのだろうとは思う。
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 2

とこ爺

おらさんは、私より10歳ぐらい後の世代のようですね。私の学生時代(と言っても夜間大学)のころは60年安保でした。全共闘時代を含む学生運動への考察、共感を覚えます。おらさんの言う「日本人はいつか、徹底的に追い詰められた時に初めて立ち上がるのだろうとは思う。」の言葉、今がその時だとお思います。立憲主義を守り、憲法の3原則を守るためにも、私は老骨に鞭打ち、頑張りたいと思います。
by とこ爺 (2016-04-05 05:46) 

おら

あの頃僕自身が何をしていたかを付け足しました。憲法と平和を守って行くために、今なんとかするしかないのですが、まだまだ徹底的に追い詰められてはいないようで、立ち上がりは鈍いと思います。
今月3日のスタンディングには20名が参加して、ギターを弾いて歌う人も現れ少し華やいだ雰囲気があり、署名も20ほど集まりました。とこ爺さんとフミさんが継続して頑張っておられることにはいつも勇気付けられます。
by おら (2016-04-05 20:46) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。