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母の足跡 [日常日記]

年の暮れも近づき、今年も終わりとなると、この一年は何だったんだろうかと振り返りたくなる。今年は母が亡くなった年であった。私と兄弟を生み育ててくれた他に、特に何か大きな足跡を残したわけでもない、ごく普通の人であったということだ。88歳で米寿を迎え、記憶力と体力をバランスよく失って、大きな苦しみもなく、静かにこの世から去っていった。

いつも明るく笑いを振りまく母だった。生まれは1922年、大正デモクラシーから昭和の戦争の時代へと進んでいく歴史の中に放り込まれたことになる。裏通りではあるが、四条烏丸まで走って30秒という京都の町のど真ん中で育ったのだが、亀岡から維新で出てきた士族の娘で、京府立第一高等女学校の高等科まで教育を受けたのだから、まあ裕福に育ったのだと思う。

京都の第一高女というのは、当時の最高水準の女子教育を誇っていたと言う。先生もなかなかのもので母の恩師には後に高名な学者となっている人がかなりいる。設備的にも室内プールがあったというから驚く。母も800m自由形で全国大会で神宮まで行ったと言うが、当時競泳のためのプールがある女学校など多くなかったから誰でも全国大会に行けたらしい。良妻賢母が当事の教育の目標だったが、母を見ればそれがしっかりと方向付けられていたことがわかる。

姿勢を正せとか勉強しろとうるさく言われるのがいやだったが、母のおかげで知らず知らずのうちに、夕食のあとは机に向かうという習慣が身についていた。これは感謝しなければならないだろう。後年、痴呆が出てきて、歩行も不自由になって、デイサービスのお世話になったが、そこでも、一生懸命歌い、折り紙をしてあくまでもいい子ちゃんを通しているのだから笑ってしまった。

母の年代の女性たちにとって女学校の思い出は格別に大きな意味を持っている。晩年は毎年の同窓会が最大の楽しみだったようだ。今のように自由な行動がなかったのだから学校生活は青春の全てだったのだろう。何十年も前の授業で習ったことを子ども達に聞かせた。僕の古文や漢文の知識は母親から聞いた以上のものではない。いろんな思い出話や先生のしぐさも実によく覚えていた。

おそらく、小さい時からいい子で通したのだろう。親戚からも可愛がられていたに違いない。嵐山の叔父さんにも可愛がられて、よく遊びに行っていた。女学校の宿題の日本画の仕上げに苦心していたら、叔父さんがチョッとだけ手を入れてくれて、それだけで見違えるような良い出来になった。

その作品を提出したら後日付箋が付いて帰ってきて、「全部ご自分でなさいましたか?」と書いてあった。先生は一目で違いを見たのだろう。叔父さんもすごいが、学校の先生もすごい。嵐山の叔父さんというのは神坂雪佳という号の日本画家なのだが、琳派のような絵を明治になってもまだ描いているのでは時代遅れでどうしようもなかっただろう。

ところが、数年前に神坂雪佳回顧展が国立美術館で行われるということになり驚いた。国外での評価が高まって日本に逆流したらしい。母が叔父さんからもらった牡丹を描いたお盆がうちにあるが、これも展覧会に並べられるような芸術作品なのだろうか。

母が嵐山の叔父さんの紹介で父と結婚したのは戦争の末期だった。父は医者ではあったが片足が不自由で徴兵されず大学に残って研究中だった。母は父に対してはあくまで従順で、面倒見がよかった。戦争中そして戦後はお嬢様育ちの母には辛かっただろう。勤務医としてあちこちに赴任する父と地方暮らしが続いた。

水道やガスもなく、井戸水を汲んで、洗濯をしていた。京都に帰りたいと思ったのだろうか、山影を見ながら涙ぐんでいる姿をかすかに覚えている。子ども達にしっかりと食事を与えることに終始気を使っていた。だから子ども達が無事に育ってくれたことが母にとって一番の満足だっただろう。

米寿のお祝いの時はもう、痴呆が進んでいたが、記憶力が薄れ、反応が無くなっただけで、周りの人や家族に迷惑をかけるなどと言うことは一切なかった。3人の子ども、6人の孫、2人のひ孫が全員集まった。写した写真はにっこりとして、仏様のような微笑が見られる。今、心から母に感謝して母の冥福を祈りたい。きっと安らかに眠ってくれていると思う。
-----<追記>-----
母の遺品の中に大森建道「瑞雲庵の青春」があった。著者の大森氏から贈られたものである。本を読めば関係がすぐにわかった。この小説の中に出てくる小柄な目の大きな女学生が母だ。戦時下の京大生たちが、特高警察の弾圧を受けながら大学新聞の発行を続ける。監視の目を逃れるために、お茶のサークルを立ち上げた。瑞雲庵の尼さんにお茶を習うことになり、そこに居合わせた女学生たちとの淡い交流が始まる。これがこの物語が主題である。

何も知らない母にとっては、文字通り青春の一こまであったのだが、京大生にとっては、報道の自由という課題を背負った戦いであった。軍事教練反対のビラが張られ、学生が逮捕される「京都学連事件」が起こり、獄死者も出ている。梅本浩志著「島崎こま子の『夜明け前』 エロス愛・狂・革命」によれば、この学生たちの寮で地下活動の支援をしていたのが、島崎藤村の姪、こま子だった。スキャンダルが新生のモデルになっている。

著者の大森建道氏も同盟通信に入社し、フィリピン戦線に派遣されて、特攻隊の取材をしたが、米軍の上陸で、退路を絶たれ、寸でのところで幸運な生還をした人である。「比島従軍日記」にそのことが書いてある。母の何事もおこらない平凡な人生も、実は波乱万丈の世界と隣あわせだったのである。

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