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間質性肺炎で亡くなった旧友を悼む [若かった頃]

僕と同病の友人が亡くなったことを知った。フェースブックに自作の戒名がアップされて、エイプリルフールのいたずらかと思ったら、前日になくなっていた。死期を知り、あらかじめ公開日を指定しておいたらしい。

彼との30年来の付き合いは僕がアメリカにいた時に始まる。シカゴにも日本人は多く住んでいたが、大部分は北西の高級住宅街に住んでいて、そこには日本語学校もあった。僕は勤務の関係でかなり遠い西の郊外に住まざるを得なかったのだが、この地域には日本人があまりいない。子供たちの教育が問題で、日本語をあきらめてしまう人も多かった。そんな中でもシカゴまで通学バスを走らせることを組織した人たちがいた。

彼は熱心にバス運行を支えている父母の一人だった。毎週土曜日にバス停に集まり、子供たちを送り出したあとで、いろんなことを話し合って仲良くなった。「Get Nips out. Keep Ameria clean」などと落書きされたり、人種差別事件もあった。当時の在米日本人には面白い人物が多かったのだが、中でも彼の強烈な個性は光っていた。僕はいつも彼の話に引き込まれた。

1970年当時、外国に行くというのは勇気のいることだった。僕のようにいずれ日本に帰るあてがあれば気楽なのだが、職も決まっていない場合、相当な決心がいったと思う。それでも、アメリカに渡る人はいた。しかし、大抵は挫折して語学研修に終わる。彼のように大学院で化学を専攻して、博士の学位まで取るような人は少なく、並大抵の努力ではなかったはずだ。何事にも熱中するのが彼の性格であり、情熱を持って初志を貫徹する人だったのだ。

彼がイリノイ州に来たのは大手食品会社クラフトの研究員になったからだ。そこで彼はマイコンに出会った。70年代の末、ワンチップCPUが現れ、新しいコンピュータの時代が始まったころだ。化学とは全く分野違いなのだが、小さなチップに埋め込まれたコンピュータの魅力に取りつかれ、安定した研究生活と高給を放り投げて独学でコンピュータの世界に飛び込んだのだ。零細企業に転職して、「マッドプラネット」とかのアーケードゲームの開発に没頭した。なんという思い切りの良さだろう。

やがて彼は独立して、ソフトウエア会社を立ち上げた。マイクロソフトなどの下請けでいくつものソフトウエアの分担をこなしたりしていたが、もちろんそんな生業を続けるつもりはなかった。彼の会社の主力製品として映像用のDATテープを使った記憶装置を開発した。テープなのにまるでディスクのように働く。ディスク容量がMBの時代に、GBの容量をもった記憶装置の普及に意気込んでいた。

彼の家の地下室には世界本社(world headquarter)の看板を掲げていたが、従業員は彼一人だ。ベンチャービジネスが皆アップルのような成功を収めるわけではない。いや、むしろほとんどの会社が数年で消えていく。生き残ることさえ稀な世界だ。半導体メモリーの発展は目覚ましく、今では100ギガバイトのメモリーも普通になっているくらいだから、彼の大容量記憶装置は残念ながら普及する前に時代遅れになってしまった。

しかし、その付属として作ったファイルコピーのソフトが生き残った。いろんなソフトをインストールする時に、多くのファイルをコピーしなくてはならないのだが、これを効率よく行うために彼のソフトが今も各社で使われている。彼の会社は、今に至るまで20年以上も続いた。自分一人でプログラムを作り、それで家族を養っていけた人が何人いるだろうか。

僕は数年で日本に帰ったのだが、その後もイリノイを訪れるたびに、彼にあったりしていた。大変なお世話になったこともある。僕がパスポートを紛失してしまい、途方に暮れたことがある。領事館で帰国のための認証をしてもらおうと思ったら、保証人が要ると言う。あの時は彼に保証人になってもらってやっと帰国することができた。僕が酸素を抱えるようになってからも、POCを使ってアメリカには行った。その時、間質性肺炎については、いろいろと彼に説明をした。

3年前、彼から「俺も間質性肺炎になったらしい」と連絡があった。skypeで話をしたのだが、どうも十分な検査ができていないように思えた。自営業みたいなものだから、保険が十分カバーしていない。治療しても無駄だなどと言われていた。それで、彼は日本に帰国して治療を受ける気になったらしい。彼は東京の名門高校の出身で、同級生には著名な医者も多い。

帰国しての治療で彼は見違えるように元気を取り戻した。我が家にも来てくれて久しぶりの再会を楽しんだ。いつもながらの彼の元気のいい話ぶりにこちらが励まされた。何事にも熱中するという彼の性格は素晴らしい。子供たちがバイオリンを習い始めた時には、彼自身も練習を始め、家族でカルテットを組むと言うことまでやった。帰国してからは碁を始め、これも一年で初段を取った。

彼のフェースブックに、酸素量が増えたことが書いてあったのはつい一か月前のことだ、肺高血圧症が出て入院したのだが、2週間前に退院して、一段落したと思っていた。まさかと疑ったが、奥さんから電話があって確定した。元気であっても、間質性肺炎の最後は急接近してくるものらしい。

精一杯生きた一人の人間として彼の生きざまには学ぶところが多い。実に立派だと思う。冥福を祈るばかりだ。
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とこ爺

おらさんのお友達の生きざまに敬服します。ご冥福を祈ります。私にとっても他人事とは思えません。ふみさんも常々「今日が一番元気なのだから・・・」と言って一日一日を大切にして精一杯頑張っています。「出来ることは何でも今日のうちに」がふみさんの口癖です。
by とこ爺 (2017-04-05 09:01) 

おら

今日一日を精一杯生きる。これが大切ですね。お互い、頑張りましょう。フミさんの絵手紙、歌ごえ、平和を求める活動など、僕の励みになっています。
by おら (2017-04-13 11:38) 

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