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僕の間質性肺炎 [療養]

間質性肺炎の経過

僕は、30代のころからリウマチがあったと思う。時々、右手首が痛んだが、キーボードの使いすぎで、腱鞘炎になっているのだと思っていた。40代になって、その痛みが強くなり、我慢できず整形外科に行った。

リウマチ反応はなく、指のこわばりとか、左右対称の痛みとかはないので、リウマチとは診断されず、痛み止めとシップ薬を処方された。そのうち痛みはなくなり、一過性のものだと言われた。しかし、手首の痛みは、前からあったのだから、一過性などというものではないのは確かだった。

案の定、また半年後には痛みが出てきた。今度は、レントゲンで手首の関節に異常のあることがハッキリしたので、大学病院のリウマチ科に紹介状を書いてもらうことになった。大学病院では、リウマチ反応はなくても、リウマチに間違いないと診断された。

まだ初期の段階だということで、アザルフィジンを処方され、関連病院に通院することを勧められた。こちらの病院は土曜日にも診察が受けられるので、仕事への影響は少なく、都合が良いものではあった。治療といっても、雑談をして、同じ処方箋をもらって帰るだけの通院だ。この病院に、5、6 年くらいも通っただろうか。

僕は医者にあまり好かれない。生意気だと思われるのだろうか。この病院での担当医は、実は大学の教授のかけもちだった。リウマチ診断をした教授とは別の人で、どうやら主流からはずれた窓際にいるようだった。僕を、生物学の研究者だと勘違いして、医者の学問水準を見下していると、敵愾心を持たれてしまったようだ。自分の病気について調べ、最近の論文についての議論をを度々したのが、まずかったようだ。

この頃から僕は、咳が出るようになった。特にひどく咳き込むというわけではないが、カラ咳が出て、セミナーなどの席上では、邪魔になる。しばらくすればおさまると言われたのだが、半年たっても直らない。何か原因があるだろうから調べてくれと言っても、たいした事ではないと、取り合ってくれない。

何度も咳の話をしていると、「そんなに私が信用できないなら、呼吸器の専門家に紹介するから見てもらえ」と言い出した。大学病院に行くと、レントゲンを取られ、呼吸器内科の診察を受けることになったのだが、そこに、かの教授先生が現われたのには驚いた。担当医が、特に異常は見られませんと言うと、横からそらみろと口を出す。これ以上は、肺生検でもやらないとわかりませんがやりますか?と言われて引き下がることになった。

カラ咳の他にも。ちょっと走っただけでも、えらく息切れするといった症状もあったのだが、僕自身もあまり気にしていなかった。異変が起こったのは、60才で夏風邪をひいた時からだ。熱が何日も下がらず、近くの医院で、抗生物質を処方してもらったのだが効かない。肺炎の恐れがあるということで、これまた近くの病院に行くことになった。この病院は老人病院であり、あまり評判は良くない。しかし、院長は呼吸器の専門家ではある。

病院では、おそらく肺炎でしょうということになって入院治療を指示された。治療に、いろいろと抗生物質を試したのだが、熱は下がらず、呼吸も困難になってきて、酸素吸入をすることになった。KL-6の値も低かったのだが、ものはためしということで、ステロイドを投与すると反応があった。これで間質性肺炎の診断になった。

高分解能のCTでも受けておれば、もっと早い段階で、診断がついたかも知れない。念入りに聴診してもらえば、バリバリという独特の呼吸音が聞こえたかもしれない。間質性肺炎の診断がついたのは、急性増悪の状態が、3週間も続いてからであった。しかし、この病院では、他の入院患者は、口も聞けない老人ばかりだったので、よく院長と話すことができ、治療は、こちらの意見も聞いてもらって進めることができた。

ステロイドパルスが効いて、肺のレントゲンも見事に回復した。2ヶ月の入院で、無事退院と思えた。ところがその後、急性増悪が復活してしまった。今度は、ステロイドパルスも効かない。crpが高値を示した他、血糖値が増加し、γGTPも跳ね上がり、尿路の感染も現われた。もちろん高熱も出た。検査値にも、KL-6が700、RAHAが80などという値が出るようになった。

手の打ちようがないと思われたので、大学病院への移送になった。ところが、病床の空きがないということで、これはペンディングになった。院長の判断で、ともかく過剰ステロイドによる症状を下げることで、免疫抑制剤の投与と、ステロイドの減薬を進めることになった。ステロイド投与の影響でアスペルギルスのような細菌の増殖が、間質性肺炎に重なったとの判断だ。症状は結構重篤で一時は意識不明になったりした。

院長は、検査数値ではなく、レントゲンの所見を重視して、悪くなっていないと判断した。このあたりは経験を積んだ臨床医の技だ。ステロイドを徐々に減らして行くと、重篤と思われた症状が緩和されていった。一方で、様々な抗生剤を投与して反応を見る。アスペルギルスは、こうした反応からの推定だ。ところが、ここで大学病院から受け入れの通知が来てしまった。

大学に移送されて、様々な検査が始まった。せっかく進んでいたステロイドの減薬も停止され、検査が続いた。一ヶ月ほども検査ばかりで治療は進まない。肺生検をやったりしても、結果は出ない。なぜなら、すでに抗生剤を投与しているからだ。γシンチとか、様々な最新の検査をするが、この場合、無駄としか言いようがない。

いいから早くステロイドの減薬を進めてくれと言う僕と、検査結果を待っての判断にこだわり、素人が口出しするなと言い張る担当医との喧嘩になってしまった。指示通りに薬は飲まないと言うと、責任を持てない患者を置いておくわけには行かないと言い出した。望むところだと、大学病院を追い出されることになった。

元の病院に戻って、ステロイドの減薬を進めると、どんどん状況は良くなっていった。一ヶ月で、ステロイド量30mgとなり、ほとんどの症状がなくなって行った。副作用を抑えるだけでなく抗生剤の効きもよくなるのだ。病気休暇も、有給休暇も使い果たし、停職ぎりぎりに追い込まれていたのだが、病院から外出許可を取って、半日出勤をした。2週間、半日出勤を続けて、大丈夫だと自信をつけ、退院した。

寝てばかりだったので、すっかり筋力がなくなって往生したが、ともかくも社会復帰には成功した。幸いなことに僕の仕事は、上司に管理されるようなものではなく、自分で仕事の内容を決めることが出来たから、体力がいらないような方向転換をした。その後、64才で定年になるまで、4年間働き続けることができた。しかし、在宅酸素は必要で、酸素ボンベを持ち歩くことになってしまってはいる。

症状は安定しており、10mgのステロイドで、ほぼ症状を抑えきれている。ステロイドを減らして行きたいのだが、減らすと症状が現われてしまう。減らさなくとも、時々、リウマチが暴れだし、関節に現われたり、腎臓に現われたり、肺に現われたりする。リウマチないしは膠原病とは、これからもうまく付き合っていかねばならない。酸素ボンベを担いで、どれだけのアクティビティーを出せるかが僕の課題だ。

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