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滅びゆくあこがれ------アマチュア無線 [日常日記]

昔は、アマチュア無線というものが、あった。無線機を作って互いに通信することを楽しむ遊びだ。囲碁でも、野球でも、アマチュアというのは、プロにあこがれ、プロに学んで育つのが常であり、アマチュアとは初心者と似たような意味合いを持つのが普通だ。だから、わざわざアマチュアであることを強調したりはしない。しかし、無線だけは、ちがう。アマチュアであることが重要なのだ。

プロの無線士は、船舶通信士であったり、通信兵であったり、確実な通信を行うことが業務であり、勝手に無線機を改造したり、不安定な電波を操って、長距離通信を試みたりはしない。無線機をいじりまわして、不可能とも思われていた通信に成功したりするのは、アマチュアだからこそ出来たのである。だから、無線の世界では、アマチュアとは挑戦者、開発者の意味合いを持った。無線の父マルコーニはアマチュアの元祖とされているし、バイブル的技術書は「Amateur handbook」と名づけられている。アマチュアであることが誇りなのだ。

日本でアマチュア無線が最も誇り高く栄えたのは1960年代である。1960年頃の田舎町に電話は普及していなかった。市役所や会社にはあっても、市外通話は電話局に申し込んで交換手につないでもらうというものであり、よほどの急用でなければ使われなかった。急用であっても、相手に電話がないのが普通だから使われるのは電報だった。「ハハキトク」などという電報を握り締めて駅に走るのが、代表的な急用である。遠くの友人とのやりとりは専ら手紙だったのだ。

そんな中で、悠々と遠くの友達と話ができるアマチュア無線は、多くの少年たちにとってあこがれだった。外国とだって通信できると言われていたが、まあ、それを望むほどの強力電波が出せないだろうとは判っていた。それでも、遠くの町と話ができるというのは、すごいことだったことに間違いはない。ソ連が人類最初の人工衛星を打ち上げ、短波帯で通信電波を送ってきたり、まさにアマチュア無線は、科学の最先端だった。

アマチュア無線の基となるラジオ製作という趣味もなかなか盛んだった。田舎町では、まだテレビの放送はなく、娯楽は専らラジオで、ラジオも買えば決して安いものではなかった。ところが、部品を集めて自分で作ると半額くらいでラジオを作ることができた。鉱石ラジオという非常に簡単なものもあって、少年たちにもとっつきやすかったし、少し勉強すれば新しい世界が開けた。古い「並四」と呼ばれるラジオの部品を使って、スーパーヘテロダイン回路にすると格段に性能が上がったので、アルバイトにもなった。実験的に回路を組み立てて、放送が聞こえるというのは、実に面白いのである。

この当時の理科系の少年は、多く模型飛行機から、ラジオを作りに移り、僕も、学校から帰ったらすぐに半田ごてのスイッチを入れる日々だった。それが、アマチュア無線を目指すことになった。アマチュア無線には免許がいるのだが、「電話級」という、やさしい資格が作られ、中学生でも合格する人が出てきて新聞にも出た。新聞に出るということは、逆に珍しいということでもある。そう簡単ではなかった。僕が受けた試験で、出来なかった問題を覚えている。 「変成器の良否を回路試験機を用いて調べる方法を述べよ」というものだ。テスターとトランスの事なのだが、用語がわからなかった。なんだ、ということで今でも覚えているのだ。択一ではなく記述式の問題だ。

免許が取れても、開局までには、かなりの時間がかかる。受信機も送信機もすべて手作りでやるしかない。完全に回路を理解して設計したわけではないのだが、受信機は高周波1段、中間周波2段のスーパーへテロダイン、送信機も高々10Wだから、UY807という真空管を使った回路と、だいたい相場が決まっており、回路図もあちこちの雑誌に掲載されていた。山から竹を切りだしてきてアンテナを張る。アンテナを見上げて、これが小さな町から世界への出口だと感じた。

やっと作り上げて、電波を出したときの感激は忘れられない。本当に遠くの町と話が出来たのだ。僕はもう、田舎町に孤立した存在ではない。外国の電波も入ってきたが、いくら呼んでも応答は無かった。相手はkWの大電力で日本まで飛ばしているのだから、こちらの微弱な電波では無理も無いのだ。毎日、いろいろと改良を試みるのがほとんどで、実際に通信を行うのはそれほど多くも無かったように思う。そうこうしているうちに高校生になり、学業が忙しくなってしまった。病気で寝込んだこともあって、僕のアマチュア無線は終わった。

20年くらいもしてから、ふと思い出してまた電波を出すことにした。電波の理屈もわかるようになっていたので、電力を上げられるように、上級の試験を受けたのだが、択一式の簡単な問題になっていた。世の中は変わっており、メーカー製の送受信機が簡単に買える様になっていた。無線機も高度になっており、とても全部自作する勇気がでる代物ではなくなっていた。100WのSSBだから、性能はすごい。英語もできるようになっていたので、アメリカの局を呼んでみたら、普通に返事が帰ってきたのには驚いた。電信ならヨーロッパでも南米でもアフリカでも問題はない。いとも簡単で拍子抜けがするくらいだった。

しかし、アマチュア無線そのものが様変わりしていた。無線機を自作する文化は無くなって、小さな手持ちの無線機が売られており、今で言う携帯電話のように使われるのが主流になって、試験もだれでも受かるようなものになってしまっていた。これはもうアマチュア無線ではないと感じた。無線連盟とメーカーが結託して通話料のいらない携帯電話として普及させてしまったのだ。無線の世界は、アマチュアではなく、プロが支配するようになっていた。

それでも、アマチュア無線を再開したのは、電波を使ってネットワークにつなぐことに興味を持ったからだ。当時、bitnetとかvaxnetはあったのだが、インターネットはまだ普及しておらず、家から、サーバーにつなげることが出来なかったのだ。電波を使ってパケットを送ることはこころまれており、リピーターなども設置されるようになっていた。新しい形のアマチュア無線が生まれるように思えたし、こんな領域でアマチュア無線が生きてくると思うと痛快だった。

ところが、インターネットの普及は思いの外す速いものだった。電話回線を使うことで始まったが、あっというまに高速回線が普及してしまった。パケット通信の意味合いがなくなってしまったのだ。携帯電話としての無線も、ホンモノの携帯電話が普及すると、たちまち廃れていった。今でも、無線をやっている人がいるから、アマチュア無線家は絶滅はしておらず、絶滅危惧種というのが正しいが、最早あの、電波に対する憧れはもどらない。僕にとってはすでに過去に栄えた絶滅種となっている。歴史のなかでは一瞬であったが、人類は電波を知り、アマチュアたちが、情熱をもってそれを愛した時期があった。それは確かな事実だ。



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