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定年後の苦難(2) 孫娘の3歳 [定年後の苦難]

孫娘が3歳になった。朝からキッチンでなにやら忙しそうにしていたおばあちゃんは、バースデーケーキを作って持参する。チョコレートで名前を書いたりして芸が細かい。ろうそくも、ちゃんと3本用意してある。

「おばあちゃんが作ったケーキすごいでしょう」と自慢するのは許しておこう。しかし「だめよ、おじいちゃん、みんなで歌ってからよ」はないだろう。素直に誕生日手順を教えればいいのに、僕を引き合いにだすのだ。

孫娘もなにやらhappy birthday to you らしきものを歌ってご機嫌である。確かに、このケーキはおいしい。プレゼントももらった。「いいなあ、おじいいちゃんも欲しいよ」と言って見たら、「おじいちゃんも3歳になったら、ね」と、返されてしまった。

それは無理だ。しかたがないから、「3歳は、もうお姉さんだね」と持ち上げてみた。「あたしは、こんど学校に行くのよ」。それは、まだ先のことだろう。「"あたし"って誰?」「よっちのことだけど、お姉さんは、”あたし”って言うの」「それで、高校生になるの、おじいちゃんもなりたい?」

なれるものなら高校生の僕にもどりたいが、これも無理だ。おばあちゃんには甘えるくせに、おじいちゃんにはいつも上から目線で講釈をたれる。まだ3歳なのだが、この子は人一倍口が達者だ。おばあちゃん譲りに違いない。

学校に行くのも、高校生になるのも、まだまだ先の事ではあるが、この子は確実にそうなって行く。ひるがえって僕は何になるのだろうか?ここで、はたと気がついてしまった。これまで、学生になったり、社会人になったり、昇格したり、いろいろと「なって」来た。

しかし、僕は今から何にも「なら」ないのだ。定年になっても、歩けるし、しゃべれるし、食べられる。何だって出来ると思っている。しかし、何にも「なる」ことは出来ない。海にあこがれても船乗りにはなれないし、文章を書いても新聞記者にもなれない。失業者にさえなれず、僕はずっと年金老人でいなければならない。夢とは、多くなにかに「なる」ということだ。僕には夢がない。これは苦痛だ。

しかし、我が配偶者の悩まない様子はどうだろう。バースデーケーキを作って、ひたすら楽しそうに見える。彼女は、渡米したときに退職して主婦になった。そして、今もただの老人ではなく現役の主婦だと思っているにちがいない。子どもの躾が無くなった今、しきりに亭主を躾ようとする。ちり紙をごみ箱に捨てろだとか、ごはんをこぼすなとか、、多分、こういうことで自分の主婦としてのアイデンティティーを保とうとしているのだ。それに好意的につきあってやっている僕に感謝すべきだろう。

考えてみれば、何にも「なら」ないというのはいい事もある。僕はいまさら「負け組」にはならないし、リストラ対象にもならない。こういう考え方も含めて、老後を楽しむ哲学を確立するには、まだまだ修行がいるようだ。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


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