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信州紀行(6)---塩田平の温泉 [信州紀行]

別所温泉は、清少納言も絶賛したという古い温泉である。司馬遼太郎は「街道を行く」のなかで、別所温泉を含むこの地方のことを塩田平として特に取り上げている。仏教を大衆化した聖たちの故郷であり、木曽義仲がわざわざ出向いて挙兵の地としたところであり、真田幸昌、幸村親子の本拠でもあり、また鎌倉文化が根付きを見せた地でもある。

ここでの宿は「花屋」という古い旅館だ。よく手入れの行き届いた広い庭にいくつもの離れ座敷があり、渡り廊下で結ばれている。完全な和風建築で、久しぶりに天井板の張られた部屋で寝ることになった。大正時代の建物は、家具調度も当時の雰囲気を伝えており、たとえば、部屋の電話機なども四号電話機、いわゆる黒電話のままにしてある。本館の食堂には大きな梁が組み立てられているのが見える。従業員も全員和服を着こなして、受け答えの物腰も落ち着いた「大正ロマン」を演出しているといったしかけだ。ゆったりとした雰囲気が味わえる。

ここに一泊して翌朝は、別所三楽寺めぐりをやってみた。まず、宿にも近い「北向観音」に歩いていった。もともと長楽寺というお寺だったのだが廃寺となり、現在は安楽寺の管理下にある。普通は南面しておかれる観音堂が、ここでは北向きになっている。善光寺に向かっており、善光寺の仏と対面しているという趣向なのである。庭には大きな桂の木があって「愛染桂」という名前がついている。映画や歌で有名な小説の場所設定がここなのだ。

「花も嵐も踏み越えて........月の比叡を一人行く」だから信州とは関係がなさそうなのだが、この物語は医者と子持ち美人看護婦のラブストーリーで、携帯電話があればあり得ないような行き違いを何度も繰り返して、最後は、看護婦がシンガーソングライターになって、ライブ会場に駆けつけた医者と結ばれるという荒唐無稽なものなのだ。件の歌は、その時のデビュー曲なのだから、比叡山などという関係のない所が出てきてもおかしくないのだ。二人はこの愛染桂の前で愛を誓ったことになっている。

安楽時の本院は少し離れたところにあり、八角三重塔がある。杖を貸してもらって石段を登っていくと見事な四重の塔に行き着く。一番下は少し広がっており、囲いに屋根をつけた裳階(もこし)なので四重のように見えるが実は三重の塔なのだそうだ。形が八角形なのが特異的だ。塔の先端にある相輪の意匠が凝っている。この塔については文献がなく、建造年代が不明だったのだが、近年、年輪分析で鎌倉時代であることが確定したということだ。

もうひとつの楽寺は常楽時で、こちらは茅葺の屋根が素晴らしい。鎌倉時代の建物には東大寺大仏殿のような合理的で力強い天竺様のものと繊細で素朴な味がある唐様のものがあるが、常楽寺本坊や八角三重塔は唐様である。禅宗様ともいわれ唐時代の緻密な様式を受け継いでいる。左手の奥にお寺直営の茶店がある。観光客も少なく、静かな雰囲気で、鶯の声が聞こえる中で、コーヒーを飲めるのは良かった。

ここからは家への帰り道だったが、帰りに無言館と海野宿に寄ることにした。無言館は戦没画学生の作品を展示した美術館だ。芸術と戦争は相反するもので、絵を描きたい人が戦争に駆り出され、命を落とすのは不本意にちがいない。戦病死が多いのは、画学生には戦場そのものが向いていないことの現れだろう。

海野宿は北国街道の宿場だが、参勤交代の大名行列がなくなった明治以降は蚕の名産地となって栄え続けたために、今も宿場の町並みを残している。道の中央を流れる用水、その両側に立ち並ぶ格子戸のはまった美しい家並みが見られる。海野宿のはずれにある白鳥神社の前の河原が、平家物語に「白鳥河原の勢揃い」として出てくる。木曽義仲が、ここに海野氏などの騎馬兵3千を集めて、一気に京に攻め上ったのだから、ここが源平合戦の発端になる。

これで3泊4日の信州旅行を終えて家路についた。無事に帰りついたのは夜9時半だった。

いにしえの鎌倉武士の気迫見る、相輪突き上げる三重の塔



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