SSブログ
懐かしい物 ブログトップ

ジブリ「風たちぬ」の計算尺 [懐かしい物]

スタジオジブリの「風たちぬ」という映画を見た。「なつかしファンタジー」であって、筋を追う映画ではない。もちろん「ポニョ」とはまったくちがう、大人、というより熟年向け、の映画だ。堀辰雄の「風たちぬ」に、ゼロ戦設計者の堀越二郎さんをあてはめ、荒井由美の「ひこうき雲」を配置する演出がうまい。理系年寄りである僕などは、まさににうってつけの顧客ターゲットだろう。画面もきれいだしまとまりも良い。宮崎駿は名人の域に達している。

飛行機開発もプロジェクトXのような「りきみ」もなく好感を持った。十分に喰えない貧乏な国で、大金を投入して最先端の飛行機を設計するのは一種の矛盾である。そんな矛盾を意識しながらも、それと共存して生きていくのが技術者の宿命かもしれない。時代の制約の中で、精一杯生きていくしかないというのが普通の人間だ。そういった微妙な技術者の気持ちをも取り上げているのが、この映画に深みを作っている。もう少し、掘り下げてもらえるといいのだが、それは、観客にゆだねるというのが映画かもしれない。

この映画で、ひとつのキーアイテムになっているのが計算尺だ。しかし、この考証は少しおかしい。S尺やT尺がついた両面型のヘンミ製計算尺は60年代のものであって、堀越さんは使わなかったはずだ。よく調べてみると、戦前にも両面式のものは作られていたようだが、両端が金属で、誤差補正ができるものはやはり戦後だろう。計算尺で6桁もの計算をやっているのもおかしい。計算尺はアナログ読み取りだから3桁以上は読めない。

桁数の大きな精度の高い計算は、どうやっていたかというと「丸善対数表」とそろばんだ。丸善が、分厚い「7桁対数表」を本にしていた。 X=2.3456*1.9876=4.66211 などという計算は、計算尺ではできない。計算尺でできるのは、X~2.34*1.98=4.66という概略計算だ。概略計算であたりをつけておいて、対数表を引く。

Log(X)=Log(2.3456)+Log(1.9876)

Log(X)=0.8525412+0.6869279=1.53946


足し算はそろばんでやって、結果のLog(X)をまた対数表を逆に見て答えXにするのだ。やっていることは結局、計算尺と同じ原理だが、対数表はデジタルで桁数が取れる。計算を積み重ねてもアナログだから、四捨五入なんてことをせず、桁落ちがないのが計算尺の便利なところだ。

1966年、大学に入った僕は、実験結果の整理のために計算尺を買った。一生使うつもりで思い切った高級品を手に入れた。この計算尺[ヘンミNO250]が将来も僕の体の一部になると信じていたのである。しかし、大学院生になったころ、アメリカから来た客員教授にHPのカリキュレータを見せられて、計算尺に未来がないことを知った。電卓がどこにでもころがるようになるのに、たいした年数はかからず、今では100円ショップにでもあるくらいだ。

それでも、あの計算尺は今でも僕の引き出しにある。実験結果の解析も、答えが何んと出るか、わくわくしながら計算尺を動かす時の気持ちの高まりがあってこそのものだった。いまでは、コンピュータ処理で、はじめから結果が出てしまうのが、味気ない。この計算尺は今後も大事にしておこう。映画に出てきたのは、僕の計算尺とまったく同じものだ。

究極の電卓(カリキュレータ) [懐かしい物]

居室を移ることになり、机の引き出しを整理していたら、昔のカリキュレータ(電卓)が出てきた。「HP15C」は究極のカリキュレータだった。驚いたことにONボタンを押すと全く正常に動作した。20年前の電池が今でも生きているのだ。ただし、ちょっと使ってみるとすぐに電池はなくなった。

これに先立つこと、僕は計算尺を愛用していた。「ヘンミNO250」を買った時には、これを一生使うと決めていた。しかし、オハイオ州立大学から来た先生に「HP35」を見せられ、仰天してしまった。当時まだ日本製の関数電卓はなかった。手のひらサイズであらゆる計算ができる。算盤や計算尺に全く勝ち目がないことは明らかだった。

就職してすぐに手に入れたのが、「HP25」である。これはプログラムも出来る。実験室で、測定電圧を温度に換算したりがその場でできた。直交座標を極座標に変換するなどということもボタン一つでできたし、最小自乗フッティングも簡単で、便利なことこの上なしだ。ほとんど毎日使った。

「HP25」の唯一つの問題は、赤色のセグメント表示で、電池の消耗が激しいことだった。充電のため電源につながねばならないのがわずらわしい。この問題を解決して、より小型の手帳サイズになったのが「HP15C」だ。液晶表示とCMOSであり、非常な省電力になった。先に述べたようにボタン電池は20年経っても動くくらいだ。プログラムの途中でも、電源を切って、また続きを始められる。まさに、これ以上何も望むものがない究極のカリキュレータだ。

結局は、ノートパソコンの登場で、excelに道を譲ることになったのだが、小さな図体に込められた機能の美しさには、いまでもほれぼれするものがある。必要な機能は全てあり、無駄な機能の水増しは一切無い。愛好者は多いらしく。数年前に、「復刻版HP15C」が売り出されたりした。PC上で動くエミュレータもある。僕が持っているオリジナル品は、なんと8万円もするビンテージ価格で取引されている。もちろん、僕はこれを手放すつもりはない。

HPカリキュレータの魅力の一つに、RPN(reverse poland notation)を使っていることがある。「(1+1)*3=」と押すのではなく、「1Enter1+3*」と押す。紙に書けば、数式どおりがわかりやすいのだが、頭の中でやるときには、「1に1を足して3を掛ける」と言うほうがわかりやすい。RPNは、紙に書くのではなく、物事は頭の中でやることを基本にしているのだ。二重三重に括弧がつくような式でもRPNなら紙に書かずに入力できる。

考える人のためのカリキュレータなどと言うニッチなものを製品化したということは驚嘆に値する。それが受け入れられる時代であったと言う事でもある。

バイキング料理 [懐かしい物]

ヴァイキングというのは、10世紀ころ北欧を拠点にしてヨーロッパ沿岸を荒らしまわった海賊のことだ。日本語でバイキングと言えば、食べ放題外食の事だった。「だった」というのは、どうも最近言葉が変わって来ている様子だからだ。

そもそも、なんでバイキングが食べ放題のことになったのか?発祥は帝国ホテルらしい。スエーデンの伝統的な食事形式であるスモーガスボードを取り入れて、各自が大盛りのテーブルから取り皿で料理を取ってくるようなサービスをバイキングと名づけたようだ。スエーデンは北欧の国であり、ヴァイキングのイメージと結びつけて表現したのだ。

北欧料理が中心のはずだが、バイキングと言う言葉が独り歩きして、イタリアンバイキングとか中華バイキングなど、地理的には不可能な名称が使われ、果ては寿司バイキングまで現われた。子ども達を引き連れ、焼肉バイキングに乗り込んで、たらふく食ったことも思い出となった。今は、そんなに食べられないから、行っても不充足感がつのるだけだから行かない。

アメリカでは、当然、帝国ホテルの命名を引き継ぐわけもなく、バフェと言われている。"All you can eat"レストランという直接表現もある。日本の近年の風潮はアメリカ語に習うことで、例えば、ストックと言っていたスキーの杖もポールというようになってきている。バイキングもバフェに取って変わられようとしている。

しかしながら、バフェというのは、日本では違う意味で使われてきた。ビュッフェと言われているが、軽便なレストランのことだ。アメリカではバフェスタイルの軽便なレストランがあったので、日本ではこの意味を取ったのだろう。バフェとビュッフェは別の言葉になっている。

では、バイキングと言う言葉が無くなるかというと、そうではない。スーパーマーケットに「お魚バイキング」などと表示されている。どうもこれは、量り売りのことらしい。大盛りのところから、各自がプラスティックパックに取り分けるというのがバイキング形式だと言う事だろう。定額取り放題ではない。

量り売りがバイキングなら、そのうち「ガソリンバイキング」なども現われるかもしれない。なに、普通のガソリン販売のことだ。いやいや、それどころではない。労働バイキングなども現われるかもしれない。現に、残業代ゼロ法案が国会に出ているくらいだ。

ロバのパン [懐かしい物]

子どものころ、1950年代、母の実家に連れていってもらう時の楽しみは蒸しパンを買ってもらう事だった。実家は京都の街中にあり、今では住宅がほとんどない商業地域だ。路上販売など大渋滞の原因になるから考えられもしない。

「♪ロバのおじさん チンカラリン
チンカラリンロン やってくる
ジャムパン ロールパン
できたて やきたて いかがです
チョコレートパンも アンパンも
なんでもあります チンカラリン♪♪♪」

軽快なメロディーのレコードを流して、ロバが馬車を引いてくる。曲が聞こえてくると、「おばあちゃん、ロバのパン来たよ」と、おやつをねだるのだ。この歌では、いろんなパンがあるようになっているが、実際には蒸しパンしかなかった。

連れ合いは、九州天草の出身なのだが、ロバのパンは天草にもあったということだ。そういえば、高校生のころ舞鶴でもロバのパンを見かけたから、全国展開していたことになる。ただし、その頃には車での販売になっていたし、普通にいろんなパンを売っていた。

調べて見ると、やはり発祥は京都で、ビタミンパンという会社が始めて、一時は、全国に150もの支店を持ったらしい。模倣で同じ業態の会社も沢山あったから、1960年代には、全国にこの曲が流れていたことになる。

当然、ビタミンパン社のCMソングだと思っていたが、どうもそうではないらしい。「ロバのパン屋さん」は矢野亮作詞・豊田稔作曲の童謡なのである。ビタミンパン社がレコードを買って勝手に販売時に流しただけだ。蒸しパンしかなかったのに、アンパンやチョコレートパンが出てくるのは、そのためである。実際にはロバではなく、木曾馬だったそうだが、これも歌が別立てで作られたからいう事情によるものだ。

童謡だから、どこの会社が使ってもかまわない。だから全国各地で使われたわけだ。歌に合わせていろんなパンを売っていたのは、多分別会社だ。ビタミンパン社は今でも存続しており、蒸しパンに特化したままだ。この歌に出てくるアンパンは今でもあるが、ジャムパンとかチョコレートパンは、あまり見かけない。どれも周りをパンで包み、中にジャムなどが入ったものだった。

あれから、パンの発展は目覚しい。僕が住んでいるこの町も「パンのまち」を自称して、多くのおいしいパン屋さんがある。パンは作りたてでないとおいしくないから、本質的に大工場のものはダメだ。中小企業、個人経営が健在できる数少ない業種だろう。数々のおいしいパンが売られている。日本は世界でも有数のパンのおいしい国になった。アメリカで暮らしていたとき、パンの不味さに辟易したのを覚えている。ただし4斤で25¢といったとんでもない安値ではあった。アメリカでも都会地に行けば日本と同じおいしいパンがあったのかもしれない。

大衆食堂 [懐かしい物]

車で遠出すると、珍しいものを見ることがある。桧枝岐に至る会津街道でつぶれそうな「大衆食堂」の看板を見た。久しく見なかった看板だ。1970年ころまで、この看板はどこにでも見られた。レストランというのは、高級西洋料理店で、庶民の行くところではなかった。ハンバーガーも無かったし、回転寿司もなかった。昼飯を食ったりする店の看板には、必ず「大衆食堂」という肩書きが付けられていた。

大昔、食堂というのは、軍隊内での食事場所とか、給食がある工場内の社員食堂とかを指しており、誰でもいける場所ではなかった。誰でも食事ができると言う意味で、「大衆食堂」と言う言葉が生まれたのだろう。

大衆食堂のメニューは、「カレーライス」「きつねうどん」「親子丼」が代表的なものだった。このメニューを引き継いでいるのはファミレスだろうか。「卵どんぶり」「素うどん」というのもあったが、今は全く見かけない。

貧乏な学生は、「カレーライスのカレー抜き」と言うのも食った。「ライス」との違いは、赤い福神漬けがついていることだ。同様に「天丼の天ぷら抜き」には、沢庵がついていた。カレーライスには必ず福神漬けがつくという文化は今もあるのだろうか。

関西では「めし」と書いた赤いちょうちんがぶら下がっている店があり、こういう所では、小皿に色々なおかずがあって、これを取って、どんぶり飯と共に食べる。今でいうキャフテリアだが、大根の煮つけとか鯖煮のような和食ばかりだった。酒もあったから居酒屋かもしれない。

庶民人情にあふれた雰囲気だった。結構真夜中まであいていて、昼夜逆転の僕が食べに行くと、夜間工事の人たちで賑わっていた。あちこちでインフラ工事が盛んな時代だった。今のように機械化されていないから、ツルハシとスコップの重労働だった。「水道か?ガスか?」と聞かれて、当時ヘリウムを使った実験をしていた僕が「どっちかと言うとガスです」と答えると、「若いときは苦労するもんや、我慢しいや」といって牛蒡天をおごってくれたりしたことを思い出す。

大きく変わったのはイタリアンフードだろう。マカロニは古くからあったが、スパゲティが出てきたのは70年頃のことだ。中学生英語新聞でスパゲティが出てきて、西洋にもうどんがあるのだと感心したことがある。今は、パスタと言っていろいろな種類があるが、スパゲティは2種類しかなかった。「ミートソース」とトマト味の「ナポリタン」である。逆に、今のイタリアンレストランには、こういった名前のスパゲティはない。最近、ピザはピッツァに変わりつつあるようだが、70年代にはピザパイと呼んでいた。

同じ名前の料理でも、現在とはちがうことがある。「とんかつ」というのは、どこでも厚手の豚肉なのだが、昔は違った。数年前、人待ちで東北本線の片岡という駅の前で、安い「とんかつ定食」を食べた。もちろん不味かったのだが、昔を思い出させる懐かしさに感激した。初老の店主がカウンターの前で調理してくれた。臆することなく豚肉をたたいて薄く引き延ばすのだ。それに粉とパン粉をつけて揚げる。取り出して、もう一度粉をつけて厚みを増してさらに揚げる。これが、昔のとんかつだったことを思い出してしまった。この店も、もう無くなっているかもしれない。

食べ物は、機敏に時代とともに変わっていく。今思っているように、寿司や天麩羅が代表的な日本の食べものであったとは思われない。「大衆食堂」といった言葉さえ失われて行くのだ。

夏空を見上げて口にかき氷 [懐かしい物]

気温が上がってきている。もうじき夏がやって来る。しかし、まだエアコンは点けていない。もう少し自然の空気の中に身を置いて人工的でない環境を味わいたいからだ。窓から入って来る風の心地よさを感じたい。

しかし、暑い。連れ合いが冷蔵庫から取り出した小豆アイスを渡してくれた。なんという贅沢だろうか。子供の頃アイスを食べるのはそう簡単なものではなかった。汗をかきかきアイスキャンデー屋に買いに行かなければならなかった。僕の町には一軒だけアイスキャンデー屋があった。

店先には、大きな箱状のアイスキャンデー機があり、その横でベルトドライブのコンプレッサーがガタガタ揺れていた。まだアンモニア冷凍機の時代だ。時々アイスキャンデー屋で爆発事故があった。アイスキャンデー作りは命がけの仕事だったのである。

八連くらいのブリキの容器に汁と棒を入れてしばらく箱の中に入れておくとアイスキャンデーができる。取り出してひっくり返すとアイスキャンデーがバラバラと落ちてくる。僕は店先に立ってその一部始終を飽きず繰り返し眺めていた。アイスキャンデーはめったに買ってもらえるものではなかったから「見るだけ」のことが多かったのである。

アイスキャンデーよりも一般的だったのは、かき氷だっただろう。「氷」の旗がぶら下がっている店で、氷の塊を回転させて削る。かき氷にありつこうと、テストの点数をアピールしたり、自発的にお手伝いをしたり、涙ぐましい努力をしたものだ。どの店にも冷凍庫はなかったから氷は専門店から調達していた。大きな氷を鋸で切って小売する店だ。一般家庭にも配達してくれて、世の中が少し豊かになった頃にはなるが、我が家に氷冷蔵庫が入った。何のことはない断熱箱の上部に氷を入れておくと庫内の温度が少しが冷えるというだけのものだ。

嬉しいのはこの冷蔵庫には常に氷の塊があり、これで「かき氷」を作れることだった。削りカスの溜がついたカンナのようなもので削る。お店のかき氷のようにふわふわしたものは出来ず、ザラメ雪のようなものだったが、いちごシロップを掛けると冷たさのなかに甘いかおりがして最高の楽ししみとなった。だからせっせとカンナ掛けをした。

最近は、かき氷のお店が見当たらない。カフェなどにあるのはクリームやチョコレートで飾ったおしゃれなもので、これは断じてかき氷ではない。あの夏の日のかき氷が無性に恋しくなったのだが、それは暑さをものともせず走り回っていた元気な自分への憧憬でもある。

調べてみると家庭用の電動かき氷機と言うのがある。うまく刃先を調整すれば、本物のふわふわしたかき氷が作れるらしい。思わず通販のボタンを押してしまった。どんなものが出来るのか、のちほど後記を書くつもりだ。
nice!(0)  コメント(2) 

病院で食べるミカンの味気無さ [懐かしい物]

病院食に蜜柑が出たから食べたのだが何か違和感がある。なぜだろうか。実は蜜柑は独特のシチュエーションを想定した食べ物なのである。山陰の冬は暖かい日が照る事がない。雪解けのぬかるみでは外でも遊べず、冬ごもりといった感じで家族は炬燵の周りに集まる。そんなとき、必ず食べたのが蜜柑だ。蜜柑は一家団欒と切り離せないものだ。断じて病院のベッドの上で一人食べるものではない。

どこの家でも冬には蜜柑を箱買いして常備していたと思う。我が家では父の同僚の実家が有田だったので、毎年大きな箱に入った蜜柑をもらった。廊下の端の冷え込んだ所にある箱から蜜柑をもってくる。蜜柑は4っつに割り、底の方を右手の指で押さえて、左手で身をくるりと回すように取り外す。こうするとスジが皮の方に残ってとれてしまう。これが普通のミカンの剥き方だと思っていたが、どうもそうではないらしい。

「有田剥き」などと言われてYouTubeで話題になったりしている。有田周辺特有の剥き方なのだそうだ。病院のミカンもこの「有田剥き」をやって見たのだが、スジが少し残る。有田蜜柑に対して特に有効な剥き方なのかも知れない。だとしたら、これが全国に普及しない理由だ。

近年、家でも蜜柑を食べる機会が少なくなったように思う。いろんな果物が出回るようになったからだ。オレンジに比べると蜜柑の味は薄くて頼りない。人々はもっと濃厚なおいしさを求める。日本独特の味だが多分輸出は出来ていないだろう。アメリカのスーパーでも見る事はなかった。日本国内ですらジュースは圧倒的にオレンジが優勢で蜜柑ジュースは人気がない。

しかし、缶詰となると、やはり蜜柑だ。オレンジの缶詰なぞ聞いたこともない。小粒なのにきれいに皮がとってあり、シロップで甘みが増やされている。多分こちらなら病院でも違和感がないだろう。風邪で元気なく寝込んだ時に食べさせてもらった覚えがある。缶詰だから新鮮さといったものはない。もともと蜜柑は「とれたて」だとか「新鮮さ」といったことが強調されることのない果物なのだ。駅のホームでは必ず蜜柑を冷凍にして売ってあった。

他のおいしい果物に押されて、劣勢なのではあるが、それでもやはり、蜜柑は失いたくない味だ。蜜柑を食べるとあの家族が集まった時の笑い声を思い出す。それが何物にも替えがたい幸せというものだろう。昨今は部活や塾で子供たちも忙しい。長時間労働やシフト勤務が増えて親も忙しい。だからといって、一家団欒の機会を安易に失なってはならない。
nice!(0)  コメント(0) 

わかるかな貸し間が普通と言う時代 [懐かしい物]

寝てばかり、PCいじる元気もなく、youtubeで著作権切れの古い映画を見た。内容はともかく、50年代の生活が随所に反映されていて、それだけでも面白い。どの映画でも庶民は貸し間に住んでいる。このことが今の若い人たちに理解できるだろうか。

アパートとかマンションはない。絶対的に住宅が不足し、戦死などで家族が減った家は、空き部屋を賃貸していたのだ。トイレも台所もない部屋借りが普通で、家人の台所から水を貰って、窓際においた七輪とかで調理していた、

僕が生まれた頃、両親が住んでいたのは病院の一室だ。食糧難で患者に給食することなどできず、病室はがら空きだった。駆け出しの医者だった父の本務は大学だったのだが、アルバイトの宿直医を兼ねて病院に住み込んでいたのである。他にも住んでいる人たちがいて病室は貸し間になっていた。畳敷きの布団で寝るタイプの病室だから普通の部屋と同じだ。

学位論文がまとまり、父は国立病院に赴任することになった。元の海軍病院だが、海軍がなくなったから、辺境の何もない港の町だ。ここでも、やはり住宅事情は悪く、とりあえずお寺の本堂、仏壇の裏にある部屋に住み着くことになった。これも貸し間である。

僕が3歳の頃、やっと住む家が見つかった。といっても長屋の一角で、6畳4畳半に台所といった構成だが風呂やガスコンロはない。水道は6軒に1つの共同水道である。電気はあるが、メーターがない定額制のものだった。電球ごとに課金され、それ以外の電気製品は使用禁止だ。庶民の集まりである長屋は近所付き合いにそれなりの味がある事を学んだ。

家らしい家に住むようになったのは、官舎の割り当てが受けられるようになってからだ。元の海軍将校宿舎だ。軍港だから大勢の将校がいた。50軒ほどもの高い塀で区画された家が立ち並び、ところどころに衛兵所とおぼしきBOXがあった。異様な光景ではある。貸し間ではないが普通の家とも言えない。

最初は下級将校用のところだったが、のちには高級将校用の家になった。ここはなかなか立派な家で、庭がひろく、専用の防空壕が付いている家もあった。問題はその古さだ。日露戦争の時に建てられたものだから、あちこち痛みが激しい。雨漏りがして、雨の日にはあちこちバケツを置いて回らねばならない。雨戸はあちこち破れがあり、襖はきしんで動かない。廃屋といっても良いようなものだ。

しかし8畳6畳6畳6畳だから広さは十分だ。それに台所横には女中部屋があり、玄関横には書生部屋がある。使い勝手は悪いが、これが明治時代の家の特徴だ。古い建物であるにも関わらず水道もガスもあり、壁には電話機まで付いている。軍人がいかに優遇されていたかがわかる。もっとも電話線はつながっていない。まだ電話は一般家庭のものではなく、うちで電話線をつなぐと言う発想はなかった。

普通の家に住むようになったのは、東京オリンピックの頃、父親が高知に転勤してからだ。世間ではまだ貸し間という文化があり、僕の学生時代も何人かの友人は貸し間住まいだった。貸し間が無くなったのはおそらく70年代になってからだ。アパートやマンションが出来て、風呂や水道がない暮らしは消えて行ったのである。
nice!(0)  コメント(3) 
懐かしい物 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。