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冬過ぎて春が来るのにまた入院 [療養]

随分長くブログを書いていない。リハビリに励み、今頃はスタスタ歩いているはずだったのだが、思惑が外れた。だんだんと呼吸が苦しくなり、リハビリどころか起き上がることもままならない。しかし先生は楽天的で一月の健診でも、膿胸は良くなっている。体力の回復に時間がかかっているだけだろうと言う事だった。

そんなものだとは思えない。状況はますます悪化して、完全寝た切り状態だ。なんとか持ちこたえて2月の受診日になったが、車椅子に乗るのも苦しく、病院に行けない。連絡を取ると救急車で来いと言う事だった。救急扱いだと、ICUに入れられ心電図などの一連の検査がされるので、膿胸以外の疾病があればそれもわかるだろう。

結果はネガティブだったらしい。むしろ、今まで右肺だけだった膿胸が今度は左肺に発生していることがわかった。早速入院になり、ドレンが始まった。今回、感覚的には今までの膿胸とは違うような気がする。ドレンですぐに楽になった前回までと異なり、苦しさが抜けない。3回目だからドレン・洗浄の手順は問題なくすすみ、膿は無くなった。

ところが僕の息苦しさは一向に良くならない。心エコーとか色々調べてもらったのだが大きな異常はは見られない。先生が出した結論は「気のせいだ」に近いものだ。肺に炎症があるがこれは誤嚥性肺炎みたいなもので、対処のしようがない。しっかり運動して痰をためないようにするしかない。いろんな機能が低下していているが、薬剤で処置できるものではなく、一種の老化だ。

これは困った。こちらは息も絶え絶えで、寝ているだけでもくるしいのだから、「しっかり運動」などあり得ない。この先どうなるのだろうか。不安がつのる。

ただ、苦しさの軽減法については、多少わかってきた。大量の酸素を吸うことだ。普通、Spo2は95%くらいで十分で、それ以上上げても意味がない。ところが僕の場合、5Lまで酸素量を上げて98%にすると楽になる。思い当たるのはヘモグロビンが極めて少ないことだ。酸素輸送量はヘモグロビン数×SpO2だから、通常よりもかなり高いSpo2が要るのだと思う。

ところが、これがまた新たな軋轢を生みだした。看護師はSpO2を96近辺に保つのが任務と心得ている。寝ている間に勝手に酸素量を減らして、僕は苦しさで目が覚めて、酸素を増やせと騒ぐ。僕は必要以上に酸素を要求する問題患者なのだ。それ以外にもオムツを拒否して用便の仕方で対立がある。コンピュータをこっそり使う使わねばならない。入院というのは看護師との戦いの日々なのだ。一体何をやってることやら。

体調は良くない。食事はのどを通らないし、コンピュータに向かう元気が出ない。膿胸のほうは一応けりが付いたからもうじき退院だろう。家に帰って苦しさは取れないながらも少し緊張を解きたい。歩きたいなどと贅沢はいあない。ゆっくりと日を過ごして、少しづつリハビリが出来ればそれでよい、

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さいなら三角またきて四角 [若かった頃]

家の傍に小高い丘があった。丘よりも急峻なところがあったから山である。雑木が茂り、曲がりくねった山道がいくつもあった。ここが僕らの遊び場だ。腰に刀を差して連れ立って歩いた。もちろん、そんなおもちゃを買ってもらえるものでもなく、自分で木を削って刀の形にしあげたものだ。時折、「曲者!」と叫んで、手裏剣ならぬ木片を投げて見る。
「なあ、今黒い影が走っただろ」
必ず調子をあわせる奴がでてくる。「そこにも!」と叫んで手裏剣を投げる。
「うむ、仕損じたか」「素早い奴だ」
「あれは伊賀者だ」
「僕たち甲賀だもんね」
やがて道はちょっとした広場に出る。そこは一面ススキ野原になっていた。遊びは鬼ごっこに切り替わる。身の丈ほどものススキが生い茂っているから、身を隠すことが出来る。かがんで素早く動けば、鬼が来たころには、もうそこにはいない。神出鬼没の忍者を演ずることができるのだ。

遊んでいると時間が経つのが早い。やがて、ススキの原に夕日が射すようになる。空にはトンビが悠然と舞い、あんな風に飛べたらなあと、しばらく見上げていたりする。みんなの顔が赤く染まった頃、決まってカラスの鳴き声が聞こえる。もう家に帰らなくてはいけない。「カラスが鳴くからかーえろ」は本当だ。

また連れ立って山を下りる。名残惜しいが友達とも別れの挨拶をしなくてはならない。

さいなら三角また来て四角
四角は豆腐 豆腐は白い
白いはウサギ ウサギは跳ねる
跳ねるは蛙 蛙は青い
青いは柳 柳は揺れる
揺れるは幽霊 幽霊は消える
消えるは電気 電気は光る
光はオヤジの禿げ頭

結構長いのだが、この歌を友達の家の前に来るたびに繰り返す。家に帰った頃には日が暮れてあたりは薄暗くなっている。いつものように「いつまで遊んでいるの」と怒られそうだ。これは一種のざれ歌だが、誰に教わったと言うことはない。ただみんな歌っていた。連れ合いに尋ねたら九州天草島でもこの歌を歌っていたと言う。僕がいた若狭湾とはこんなにも離れているのに、どうやって伝わったのだろうか。実に不思議である。
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ちょっとまし、回復基調になったのか [療養]

ときおり出る高熱に悩まされて来たが、ここ2週間は微熱だけで済んでいる。呼吸も少し楽で息切れもましになって来たような気がする。痰も量が減って色が白くなっている。回復基調になって来たのならいいなあ。

そんな思いで行った外来受診。胸水が増えているという兆候はない。しかし膿胸から離脱出来たと考えるのは早計だそうだ。今後の悪化も十分考えられる。肺の状況はと言えば、やはり左が広範囲にわたって白い。12月と変わらない。抗生剤の効果はなかったと言う事なのか。先生曰く、レントゲンだけでは判断が難しい。明確に効いたと言うわけではないから継続しての投与はないことになった。

血液検査の結果では、crpが4まで下がったのは朗報だ。しかしこれでもまだ非常に高い。いったいこの炎症はどこで発生しているのだろうか。気になるのは心筋への負担の指数NTproBNPで900以上は心不全の治療が必要と言うことになっているのだが、僕は3600もある。循環器の先生に紹介されないのが不思議だ。

もっとも、NTproBNPは代謝されないために上がることもある。クレアチニンが1.3だから腎機能が普通の人の半分しかない。若いころ慢性腎炎と言われ、腎機能が弱いのは以前からだけど1.3は高すぎる。1.7になると透析を考えなければならない。

他にも懸念要素はいっぱいある。カリウムが多いし、白血球数、血糖値、尿酸値も高い。アルブミン、リンパ球は低い。正常範囲な検査結果はむしろ少ないくらいだ。先生も何から手を付けていいのかわからないのではないだろうか。

それでも、悪くなっている実感はない。寝た切りから脱出して、少しづつ起き上がって行きたいと思う。このところ熱に負けて手を抜いていたが、それには、やっぱりリハビリだなあ。 

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車椅子いろんな機種があるんだね [療養]

退院しても、歩けるようになるまでにはしばらくリハビリが必要だ。一方で免許証の更新とか、すぐにも出かけなければならない用件もあった。そこで車椅子をレンタルした。じきに要らなくなると思ったのだが、もう一度入院したりして、なかなか歩けるようにはならない。結局、もう半年もレンタルしたままである。

出かけるときは車椅子なのだが、これがどうも楽ではない。体幹が弱い僕には座位を保つのが苦しい。とても長時間乗っておられるものではないのだ。病院では備え付けの車椅子を使うのだが、こちらの方が少し楽だと気が付いた。どうも背もたれの高さがわずかに違うせいらしい。病院のものよりもう少し背もたれが高ければよほど楽だろう。さらに少しリクライニングがあればもっと楽になる。

そう思って調べて見たら、あるある。車椅子には随分いろんな種類があることがわかった。片足用とか入浴用、中にはスポーツ用というのまである。大きく分けて、自走用と介護用がある。自走用は車輪が大きく手で回せる。介護用は車輪が小さく押してもらって移動するのが基本だ。

レンタルしているものは、折りたたんで車に乗せやすいように、少し小ぶりで背もたれが低い介護用だ。腰と背中の中間までしか支えてくれないのが、座っているのが苦しい原因だ。うちの車はハッチバックだから、そんなに小さく折りたたまなくても載せられる。もう少し背もたれの高いものに取り替えたほうがいいのではないだろうか。

ただ背もたれが高いと言うだけのものは無く、「多機能」と言うものになる。チルトもリクライニングもできる。これはきっと楽だろう。車つき安楽椅子だ。車つき安楽椅子なら座っていても苦しくならないから、家の中でも使える。移動も出来てトイレに行くとき伝い歩きに失敗して転ぶこともなくなる。車椅子生活ということに抵抗感はあるのだが、この際、やはり楽な方を選んだほうがよさそうだ。日中、車椅子に座って過ごすことにするのだ。

家から駐車場までは狭く何段かのステップがあって、バリアフリーではないから、もちろん車椅子に乗ったまま移動するわけには行かない。ここは息切れしながら伝い歩きをするしかないのだが、要は連れ合いがカラの車椅子を、家の中から車まで、運べればそれでいい。安楽車椅子も折りたたみはできる。

ところがである。実は安楽車椅子はどれも重量が重いことがわかった。現用の軽量車椅子が11.4㎏なのに対して24㎏もある。軽そうなのを探してみたが20㎏を下回るものはなさそうだ。車輪や本体をバラバラにして運べるものもあったが、使うたびに組み立て直すのはいかにも面倒だ。

連れ合いに24㎏の運搬を頼むのは酷だが、背に腹は代えられないと言うこともる。試みに現用の車椅子を家の中で使うとどんな具合なのかを試して見た。11.4㎏なら問題なく運べたが楽ではなさそうだった。20㎏超は少し無理かなという気もする。

家の中で車椅子に乗って見ると、今更ながらの家の狭さに気が付いた。あちこちに物がおいてあり、それがいちいち邪魔になる。テーブル、スタンド、本棚、全てが引っかかる。狭い角を曲がるのは切り返しがいるし、ドアを開けるにはバックしなくてはならない。最大の問題は酸素の長いチューブで、これが床にとぐろをまいている。絡みつくし、車で轢いてしまう。

結局の所、どうも家の中でも車椅子を使うというのは、良い思い付きではなかったようだ。めったにないお出かけ専用と言う事では安楽車椅子も魅力が少ない。重いというのが最大の問題で、家に持ち込まないにしても、介助仕様でない普通の車で乗せ降ろしは、多発性骨髄腫の連れ合いには負担が大きすぎるかも知れない。

車椅子の工夫なんかするよりもリハビリを頑張って杖歩きが出来るようになるのが本道という気がしてきた。
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わかるかな貸し間が普通と言う時代 [懐かしい物]

寝てばかり、PCいじる元気もなく、youtubeで著作権切れの古い映画を見た。内容はともかく、50年代の生活が随所に反映されていて、それだけでも面白い。どの映画でも庶民は貸し間に住んでいる。このことが今の若い人たちに理解できるだろうか。

アパートとかマンションはない。絶対的に住宅が不足し、戦死などで家族が減った家は、空き部屋を賃貸していたのだ。トイレも台所もない部屋借りが普通で、家人の台所から水を貰って、窓際においた七輪とかで調理していた、

僕が生まれた頃、両親が住んでいたのは病院の一室だ。食糧難で患者に給食することなどできず、病室はがら空きだった。駆け出しの医者だった父の本務は大学だったのだが、アルバイトの宿直医を兼ねて病院に住み込んでいたのである。他にも住んでいる人たちがいて病室は貸し間になっていた。畳敷きの布団で寝るタイプの病室だから普通の部屋と同じだ。

学位論文がまとまり、父は国立病院に赴任することになった。元の海軍病院だが、海軍がなくなったから、辺境の何もない港の町だ。ここでも、やはり住宅事情は悪く、とりあえずお寺の本堂、仏壇の裏にある部屋に住み着くことになった。これも貸し間である。

僕が3歳の頃、やっと住む家が見つかった。といっても長屋の一角で、6畳4畳半に台所といった構成だが風呂やガスコンロはない。水道は6軒に1つの共同水道である。電気はあるが、メーターがない定額制のものだった。電球ごとに課金され、それ以外の電気製品は使用禁止だ。庶民の集まりである長屋は近所付き合いにそれなりの味がある事を学んだ。

家らしい家に住むようになったのは、官舎の割り当てが受けられるようになってからだ。元の海軍将校宿舎だ。軍港だから大勢の将校がいた。50軒ほどもの高い塀で区画された家が立ち並び、ところどころに衛兵所とおぼしきBOXがあった。異様な光景ではある。貸し間ではないが普通の家とも言えない。

最初は下級将校用のところだったが、のちには高級将校用の家になった。ここはなかなか立派な家で、庭がひろく、専用の防空壕が付いている家もあった。問題はその古さだ。日露戦争の時に建てられたものだから、あちこち痛みが激しい。雨漏りがして、雨の日にはあちこちバケツを置いて回らねばならない。雨戸はあちこち破れがあり、襖はきしんで動かない。廃屋といっても良いようなものだ。

しかし8畳6畳6畳6畳だから広さは十分だ。それに台所横には女中部屋があり、玄関横には書生部屋がある。使い勝手は悪いが、これが明治時代の家の特徴だ。古い建物であるにも関わらず水道もガスもあり、壁には電話機まで付いている。軍人がいかに優遇されていたかがわかる。もっとも電話線はつながっていない。まだ電話は一般家庭のものではなく、うちで電話線をつなぐと言う発想はなかった。

普通の家に住むようになったのは、東京オリンピックの頃、父親が高知に転勤してからだ。世間ではまだ貸し間という文化があり、僕の学生時代も何人かの友人は貸し間住まいだった。貸し間が無くなったのはおそらく70年代になってからだ。アパートやマンションが出来て、風呂や水道がない暮らしは消えて行ったのである。
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