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わかるかな貸し間が普通と言う時代 [懐かしい物]

寝てばかり、PCいじる元気もなく、youtubeで著作権切れの古い映画を見た。内容はともかく、50年代の生活が随所に反映されていて、それだけでも面白い。どの映画でも庶民は貸し間に住んでいる。このことが今の若い人たちに理解できるだろうか。

アパートとかマンションはない。絶対的に住宅が不足し、戦死などで家族が減った家は、空き部屋を賃貸していたのだ。トイレも台所もない部屋借りが普通で、家人の台所から水を貰って、窓際においた七輪とかで調理していた、

僕が生まれた頃、両親が住んでいたのは病院の一室だ。食糧難で患者に給食することなどできず、病室はがら空きだった。駆け出しの医者だった父の本務は大学だったのだが、アルバイトの宿直医を兼ねて病院に住み込んでいたのである。他にも住んでいる人たちがいて病室は貸し間になっていた。畳敷きの布団で寝るタイプの病室だから普通の部屋と同じだ。

学位論文がまとまり、父は国立病院に赴任することになった。元の海軍病院だが、海軍がなくなったから、辺境の何もない港の町だ。ここでも、やはり住宅事情は悪く、とりあえずお寺の本堂、仏壇の裏にある部屋に住み着くことになった。これも貸し間である。

僕が3歳の頃、やっと住む家が見つかった。といっても長屋の一角で、6畳4畳半に台所といった構成だが風呂やガスコンロはない。水道は6軒に1つの共同水道である。電気はあるが、メーターがない定額制のものだった。電球ごとに課金され、それ以外の電気製品は使用禁止だ。庶民の集まりである長屋は近所付き合いにそれなりの味がある事を学んだ。

家らしい家に住むようになったのは、官舎の割り当てが受けられるようになってからだ。元の海軍将校宿舎だ。軍港だから大勢の将校がいた。50軒ほどもの高い塀で区画された家が立ち並び、ところどころに衛兵所とおぼしきBOXがあった。異様な光景ではある。貸し間ではないが普通の家とも言えない。

最初は下級将校用のところだったが、のちには高級将校用の家になった。ここはなかなか立派な家で、庭がひろく、専用の防空壕が付いている家もあった。問題はその古さだ。日露戦争の時に建てられたものだから、あちこち痛みが激しい。雨漏りがして、雨の日にはあちこちバケツを置いて回らねばならない。雨戸はあちこち破れがあり、襖はきしんで動かない。廃屋といっても良いようなものだ。

しかし8畳6畳6畳6畳だから広さは十分だ。それに台所横には女中部屋があり、玄関横には書生部屋がある。使い勝手は悪いが、これが明治時代の家の特徴だ。古い建物であるにも関わらず水道もガスもあり、壁には電話機まで付いている。軍人がいかに優遇されていたかがわかる。もっとも電話線はつながっていない。まだ電話は一般家庭のものではなく、うちで電話線をつなぐと言う発想はなかった。

普通の家に住むようになったのは、東京オリンピックの頃、父親が高知に転勤してからだ。世間ではまだ貸し間という文化があり、僕の学生時代も何人かの友人は貸し間住まいだった。貸し間が無くなったのはおそらく70年代になってからだ。アパートやマンションが出来て、風呂や水道がない暮らしは消えて行ったのである。
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ふかさん

おらさん
私も学生時代は、貸し間だった。3畳ひと間。2年生の途中から、寮を出て貸し間に。4人の学生が居て、水道もトイレも共同。風呂は近くの銭湯。食事は近くの定食屋。お金を出して定食を注文、残すなんて勿体無いと、好き嫌いの多かった私ですが何でも食べる様になりました。実家も長屋の借家住まい。小学校に上がる頃、すぐ近くの長屋を購入しそれが今の住まい屋に。ご近所皆貧乏だったので、子供らは平等。小遣いが欲しいとも言い出せず、欲しいモノも買って貰えなかった。小さい頃の思い出は、貧乏だったということだけ。
by ふかさん (2019-01-04 17:42) 

おら

僕は「学生寮」と称するアパートでしたが、3畳一間共同トイレですから貸し間と同じです。子供の頃、医者も特別ではなく事務員と同じ扱いでしたから、高給取りではありませんでした。でもお小遣いは貰ってました。小学校では学年X10円、中学では学年X100円でしたね。商店の子なんかより、かなり少なかったですね。豊かではなかったけど格差が少ない社会ではそれを不幸と感じることがなかったと思います。
by おら (2019-01-05 16:53) 

みいちゃん

おめでとうございます、お正月は、家に帰られたでしょうね、きっとお母様が大変な思いをなさったと思いますよ、商売もやはり母が大変でした、子供が4にんも行ってその中でも私が親を一番困らせたです、私は家から出たことがなくて、20くらいの時に家に私しかいなかったので、今思うと贅沢ですよね、親の監視がうるさくて出たいなって、商売を生まれたときからやっていたので、アパ-トに住んだことはなかったです、本当に親に感謝しています、姉は看護婦の寮にいて兄は大学の時アパ-トに住んでいました、妹もアパ-トで一人暮らしをしていました、今思うと親に感謝です、おらさんも早くお元気になられるといいですね、私は病気のほうは落ち着いているのに膀胱炎になって今回暮れからお正月にかけて大変でした、おらさんに比べれば全然大変さは違いますけど、お大事に奥様の病気のほうは落ち着いていらしゃいますか、今年もよろしくお願いしますおやすみなさい
by みいちゃん (2019-01-09 19:57) 

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